伴名練編『日本SFの臨界点〔恋愛篇〕』で円城塔「ムーンシャイン」を久しぶりに読んで、最初に読んだときには気づけなかったことに気づけたので、ここに書いていこうと思う。
まず、題名について、これは有限散在型単純群で最大の位数をもつ群(モンスター群)の既約表現と、j-不変量のフーリエ展開の係数の間になんらかの関係がありそうだ、という仮説、ムーンシャイン予想*1*2に由来する。
ムーンシャイン理論自体の数学的な詳細は私もよくわからないが、この「ムーンシャイン」という作品自体は円城塔作品の中ではかなりわかりやすい部類の作品で、しかも一二を争うド直球なSFでもある。この作品の検討を行うことで、円城塔作品全体の見通しもよくなる。
以下、テクストとしてハヤカワ文庫JA『日本SFの臨界点〔恋愛篇〕』紙版を用いる。
作品概論
人類は、古来より目に見える世界を具体的に記述し、科学を発展させてきた。しかしこの方法で完全な記述を得ることが困難であると判明したのがいわゆる“科学の危機”である。この科学の危機をもたらしたのは、極小の物質間の振舞を記述する量子力学と、時空を記述する相対論だった。これらはいずれもわれわれの“古典的”直感に反する現象*3を予言した。この予言の中には、あたかもわれわれの自由意志や万能感を揺るがすかのようなもの*4も含まれており、物理学者のみならず、哲学者までをも巻き込んだ大論争が起こった。
しかしながら、哲学はさておき、物理学はあくまで自然を矛盾なく説明出来ることが最も重視される学問であり、いかに不思議なように思われても、その理論で自然を過不足なく説明出来ればそれを正しい理論だとする。その点において、量子力学と相対論は最も説得力があり、実験と理論との間にこれ以上ない一致をみることが出来る“正しい”理論だった。
そのような正しい量子力学と相対論に基づいて考えてみると、われわれの古典的な直感(これを先入観という)はあくまで古典的スケールにおいてのみ適用可能であり、真の自然はわれわれの直感に反する。物理学者も人間である以上、この人間的な直感からは逃れられなかった。この直感を排除し、より正しい理論を求めるために、自然科学は数学という抽象的論理を用いる手法をさらに発展させたのだった。
この方針がはじまった頃はよかったのだが、近年では、物理の理論を構築する際に、人間の処理能力をはるかに上回る途方もなく大きな量を扱わなければならない事態が発生しつつある*5。このような、人間の処理能力をはるかに上回る巨大数を扱う分野(本作では特に有限群論)では、共感覚による直感的把握が必要だ、というのが本作のSF的な主張。
この時点で、本作に登場する少女は、モンスター群の位数およそ8.08×10^53*6という巨大数を一眼で直感的に理解しており、われわれの理解可能な数学的抽象空間をはるかに超越していることを読者に明示する(299頁)。すなわち、少女は共感覚によって数を具体的な存在として扱うことが出来るのである。それにもかかわらず、物語を経て少女は数に関する直感的で具体的な理解を捨て去り、まったく未知の数学的構造に足を踏み入れる。
まとめてみると、具体から抽象に移ることによって進展した現代科学をよそに、少女はその抽象を超えた共感覚によって得た具体をも捨て去り、未知の世界に旅立っていった、という感じになる。
原理的にギリギリ理解可能な範囲から一歩踏み出す様を、原理的に記述不可能な超越的世界を自ら選び取るというプロットを用いて描くことで、理解不可能かつ清涼な読後感を生み出している。
そしてこのラストシーンが無上にいい。千々に砕けちる塔、その無数の破片に降り注ぐムーンシャイン。橋を渡っていく遠景の、その遠方消失点が Vertex に重なって見え、 Vertex ということはもちろんそこには頂点作用素代数(Vertex Operator Algebra)であるモンスター加群もいるわけで、少女の新世界への餞をオールキャストで執り行う、という趣がある。(これは332~333頁に布石がある)
そもそもムーンシャインとは、馬鹿げたたわごとを指す言葉であった。本作は、そのムーンシャインという言葉に恥じず、とんでもないたわごとでありながら、元ネタであるムーンシャイン理論・モンスター群と同じ理解不可能性に由来する崇高な美しさを湛える。
科学の美しさを文学の美しさで彩りつつ、かつ一般読者へのとっかかり(ボーイミーツガール? と厨二っぽい少女争奪劇)をも備えた本作は、まさにサイエンスとフィクションのいいとこどりであり、また理想的なSF作品であると言える。
検討
本論考のメモはAll-Reference ENGINE の「ムーンシャイン」の項に置いてあり、本筋にあまり関係がない元ネタ探し等はすべてそちらで行っているので省く。
群論
292頁に群の定義が登場するが、これはそのまま数学的に正しい群の定義になる。
群は対称性を記述し、対称性をなにより重視する物理学で非常によく用いられる数学的構造である。物理学で群が重視されるのは、物理学で重要な概念である角運動量保存則・運動量保存則・エネルギー保存則がそれぞれ空間の回転対称性・空間の並進対称性・時間原点のとり方に関する対称性に由来するものだからである。このように、保存則・保存量は対称性に起因し、対称性は必ず群論によって記述出来る*7。
群をうまく使ってやれば、未知の物理法則を予言することさえ出来る。そのため物理学者は(というか多くの物理学科の学生は)群論を学び、群を重んじている。
群論のありがたさを素粒子物理で実感している身になってはじめて、この作品の面白さを身にしみて理解出来るようになったと思う(個人の感想)。
作中の布石
もしかすると、ラストシーンは唐突なものに感じられるかもしれない。しかしながら、このラストシーンにむけては、作中でしっかりと布石が仕込まれている。既に言及した332~333頁の直接的な布石以外では、 304頁にある異国の言葉のくだりがそれにあたる。この異国の言語とされているものこそ、われわれが日常で用いている自然言語(ここでは学術語ではなく、特に日常語を指す)である。
要するに、双子は「共感覚を捨てて、互いに独立した五感と、それに基づく一般的な日常言語を身につけろ」と言っている。さもなくば、われわれのいるこの一般的な世界に戻れなくなるぞ、とも。
だが、そんな言葉は少女に通じない。少女は自らの知的好奇心にしたがって、いまいる世界の基底となる共感覚すらも捨てて、さらに上の世界へと歩み去ってしまった。これが堪らず叙情的かつ思弁的で、神秘性すら覚えてしまう。
とんでもないことを言って話をひっくり返すだけでなく、しっかりと小説の作法にのっとった展開を見せたり、時には作品に制限をかけてしまうその作法に挑戦するような展開を見せたりすることが、私が円城塔の作品を読み続けている一番の理由になっている。
理解不可能性
注目したいのは、本作の理解不可能性だ。
円城塔の作品は一般に難解であるとされるが、この難解さの原因である理解不可能性は大きく分けて3つに分類される。
1つめが、引用に次ぐ引用による理解不可能性。平たくいうと、元ネタが辿りきれなくて理解不可能、というものである。これがよく出ている作品が「What is the Name of This Rose?」。
2つめが、難解な学術的知識による理解不可能性。要は、難しい数学や物理学が導入されることによって単純に難しくなって理解不能、というやつ。これがよく出ている作品が「エデン逆行」「Your Heads Only」。
しかしながら、これらの理解不可能性は、読み手側の強大なマシンパワーや数理科学をあまり苦に思わない人間(例えば、いまこんなことをしている私)によって解体され形骸化してしまう。
これらに対して、3つめの理解不可能性が、原理的な理解不可能性である。これは説明しようがない類の、小説的・言語的・情報的な伝達不可能性に立脚した理解不可能性である。これが一番よく出ているのが「男・右靴・石」。
さて、これら3つのうち、2つめ・3つめの理解不可能性がバランスよく現れているのが、本作「ムーンシャイン」である。ただ、本作の場合、本文に説明的文章が多数導入されていることと、そもそもの理解しておくべき概念が少なめなこと、ガジェットであるモンスター群が明示されていることで学術的難解性はかなり薄まっている。これが本作がかなりわかりやすい(とはいえ、群論を知らない人からは相当イメージがつきにくいだろう)理由である。
一方で、原理的な理解不可能性は依然として読者の前に立ち塞がる。しかしながら、本作では理解出来ないこと自体がラストの美しい情景を生み出す元になっているので、理解出来なくともまったく問題はなく、むしろそれでこそ読者は美しさを楽しめる、という構造になっている。
問題なのは、理解出来ないこと自体を探究して理解不可能であると厳密に理解しなければならなくなる「男・右靴・石」なのだが、今回はここまでにしておこうと思う。
感想
近代以降に科学が歩んだ抽象化の道のりをひっくり返した上で、その先にある未知の領域を美しく描いているのが非常に印象的。大学入学以前に読んだときは厨二臭いとは思えどこのようなことには気づけなかったので、自分も成長しているんだなと謎の達成感も得た。
そしてしっかりと物理を学んだことで、作品中での虚飾を取り除いて、円城塔の純粋な問題意識を精査出来るようになったのも大きな成長。今回は群論がメインガジェットであり、流石に縁のないモジュラー関数はよくわからないものの、有限群とか物理でも扱う概念に関してはなんの苦もなく理解出来たし、作品理解に必要な描写の取捨選択も容易に行えた。
円城塔の問題意識というか、関心は割と物理学を学んでいるとどこからか湧き出てくる疑問に近いものがあるように思う。この疑問は物理学で問えるようなものではないので、自然このような文学に向かうのだとも。
物理を学べば学ぶほどに物理学自体も面白いし、円城塔の作品を読み直してさらに読み深められるのも非常に面白い経験なので、ますますモチベーションが高まる。
ところで、今回は中盤で出てきたユニバーサル・チューリング・マシンに関する議論は行わなかった。これは物語にあまり直接的に関わってこないと判断したからなのだが、果たしてこれでよかったのかという疑問が残る。
少女に魔法陣を見せてひとつのインターフェースを呼び出すというのは、多分、プログラミングにおける関数の呼び出しと、行列への作用とのアナロジー。話を進めるために呼び出してるだけであって、本筋はあくまで群論であると読み取ったので言及しなかったのだが、もしかすると読み切れていないだけなのかもしれない。
それでも、一度読んだはずの物語の意図を、簡単に読み取れるようになった、という経験は楽しいものだった。かつて日本SF御三家の作品から意図や構造を読み取れるようになって再度SFに夢中になったように、理学を身に付けたことで三度夢中になっている。
【追記】(2020/08/29)
円城塔による「ムーンシャイン」答え合わせ
本記事を7/25に投稿したのち、27日に円城塔本人から「ムーンシャイン」の元ネタの答え合わせが Twitter に投下された。
『日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙』所収、「ムーンシャイン」の元ネタ。
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2020年7月27日
『ペトロス伯父と「ゴールドバッハの予想」』、『ぼくには数字が風景に見える』、Conway's Prime Producing Machine とモンスターを混ぜるとだいたいあんな感じになるんだけれど、今ではもうああいう法螺の吹き方はできなくなった。(「Beaver Weaver」とかも今ではこわくて書けない。)
— EnJoe140で短編中 (@EnJoeToh) 2020年7月27日
ここで元ネタとして挙げられたのは主に4つあり、そのうち3つ(挙げられている順にドキアディス、共感覚、モンスター群とムーンシャイン)までは気づけたのだが、Conway's Prime Producing Machine に気づくことが出来なかった。厳密には、感想でユニバーサル・チューリング・マシンに触れているものの、ここにもう一枚わからないレイヤーがあることに言及するのみで Conway's Prime Producing Machine に気づくには至らなかった。
完全な理解まであと一歩まで迫りながらついにその境地に至れなかったことについて、これがものすごく悔しかったので、Conway's Prime Producing Machine を踏まえた大幅な追記を行う。
この Conway's~ を勉強して精読を重ねたことで新たに気づいたこともあるので、それについても書いていく。
ただ、Conway's Prime Producing Machine は難解かつ作品には直接かかわらないため、説明は読み飛ばしても構わない。
Conway's Prime Producing Machine
まず、Conway's Prime Producing Machine(あるいは Conway's Primegame)について解説する*8。以下、簡単のためPrimegame と書く。
Primegame は文字通り素数を出力するアルゴリズムで、Turing 完全なプログラミング言語 FRACTRAN で記述される。実際の Primegame のコードは以下の通り。
見ての通り、FRACTRAN は数字のみから成るプログラミング言語であり、非常に難解である。これについて、もう少し詳しくみる。
(わかりにくい)説明
Primegame は入力に自然数をとる。入力された自然数に対して、列挙された分数のうち一番左のものとの乗算を行い、自然数になったらそこでいったん停止。入力と分数の積が自然数でなければ、ひとつ右の分数と入力の積をとり、自然数ならそこで停止、自然数でなければ以下同様。自然数であれば、それを新たな入力にとって、以下同様。そしてある一定の条件になった時、出力の指数が素数になっている。この出力を入力すると、同様にして最終的な出力の指数が次の素数になっている。
要するに、入力値である自然数との積もまた自然数になるような分数の中から最も左側の分数を選んでかけ、この操作をある一定の条件を満たすまで続けるアルゴリズムがこの Primegame ということ。
また、入力が であるならば、Primegame は以下のプログラムと同値である。
(1)整数を入力とする
(2)変数にそれぞれを代入する
(3)をで割る
(4)余りが0でないならば,から 1 引いて(3)に戻る
(5)余りが0のとき,
(5.1)が 1 より大きいならば,に1を足し,にを代入して(3)に戻る
(5.2)が 1 ならば,を出力する
計算機科学の言葉を使えば、Primegame はレジスターマシンの一種。
この Primegame の挙動は非常に難しいので、次の節で実際に手計算で動かしてみることにする。
Primegame: 初期入力値が2の場合
初期入力値が2の場合、求めたい素数が2の指数になる。
1. 入力は2であるから、2との積が自然数かつ最も左側に位置するをかけて、15を得る。
2. 入力は15であるから、15との積が自然数かつ最も左側に位置する をかけて、825を得る。
3. 入力は825であるから、825との積が自然数かつ最も左側に位置する をかけて、725を得る。(以降、記述を省略する)
4.
5.
6.
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8.
9.
10.
11.
12.
13.
14.
15.
16.
17.
18.
19.
ステップ19で が得られ、これの指数はたしかに1番目の素数2である。これ以降も同様に走らせると、ステップ69で となって2番目の素数3が、ステップ281で となって3番目の素数5が得られ、以下すべての素数が得られる。
Primegame の特徴
Primegame の特徴は、なんと言っても、高々14個の有理数と単純な計算規則のみですべての素数を求めることが可能なところにある。無数に存在することが証明されている素数が明らかに有限個の要素から成るアルゴリズムで求められることは奇妙に思われるかもしれない。
これが可能なのは、Primegame においては14個の有理数に含まれる素因数たちがある種のメモリとして機能しているからである。素因数たちは演算によって入力される値自体に累乗の形で取り込まれ、都合加算無限個の値をとるメモリとして機能する*9。
これによって、Primegame は事実上無限の計算領域をもつ。すなわち、チューリングマシンと同等の計算能力をもつ(Turing 完全)。
また、FRACTRAN によって記述されているので、入力、出力、メモリ(ラベル)、演算がすべて数字で記述されており、このため Primegame は一見して何が何なのか判別がつかない。これが FRACTRAN が難解である理由であり、ひいては Primegame が難解な理由でもある。
また、メモリとオートマトン部分が数字という同じ文字コードを用いて記述されているため、入力する値によってはバグったり無限ループしたりすることになる*10。一方で、Primegame そのものと入力をひとつの系とみなして、この系を成す素因数をすべて入れ替える、ないし別の素因数とそっくり交換する(たとえば2と97*11)などしても破綻しない。数字自体に意味があるのではなく、互いに素である数同士でメモリをラベリングしているだけだからである。
Primegame を踏まえた「ムーンシャイン」
さて、Primegame がどのようなものかを把握した上で、再度「ムーンシャイン」をみる。
結論、本作のSF的理解のために Primegame を勉強する必要はまったくない。つまるところ、Primegame とは高々有限個の自然数をうまく組み合わせることで無数の素数を出力出来る不思議な計算機であるとだけ知っていればよく、そもそもこのぼんやりとした知識すら本作を素朴に読む上では必要ない。
Primegame はあくまで、少女という超常的な計算能力をもつなにかの上で走る計算機としての数字(作中では17)、というアイデアの元ネタに留まる。ただの数字であるはずの17というものがどうしてか計算機になっているのだが、実際数字のみから成るプログラミング言語 FRACTRAN で記述された Primegame が Turing 完全なのだから特段おかしいことは言っていない、という感じの軽い元ネタである。
そして17が Turing 完全であるということは作中で明示されているし(322頁)、17が Primegame 的な Turing 完全な計算機であるということは、少女が数に関する直感的理解を捨て超越的世界へと歩みを進めていくという本作の本筋には直接的には関わってこない。(17、19は少女が現在もつ数に関する異常な直感的理解によって認識・記述されているので、少女がこの直感的理解を捨てると17、19は消滅すると考えられる。これを根拠に17、19は少女を引き留めようとするも、少女は自らの興味関心にしたがって直感的理解を捨てるに至る。Primegame が本作の本筋に関わるのはせいぜいこの程度で、これ以外に関与は認められない。)
したがって、Primegame を学んできたからといって本作に関して目新しい視座を得ることはなかった。ただ、Primegame は直接物語に関わってくる重要な概念ではないということを示せたことには意義があると思う。
再読・精読によるさらなる補足解説
ここからは Conway's Prime Producing Machine に直接関わらないが、再読・精読によってさらに気づいたことについて補足解説を行なっていく。
本作は超越的な数学構造に少女が足を踏み入れるところで終わる。この越境を通じて少女が歩み寄るのは、実は、生命現象の理解である。
生命現象は連続的に変化する状態量を十分集めてくることで記述されると期待される*12。この状態量として、通常化学物質の種類・濃度などが考えられ、化学物質はもちろん物理法則に従う。そして物理法則は数学的構造を用いて記述されるので、生命現象は数学的構造に支配されているということがわかる*13。ここでは数学を知ることは生命を理解することにほかならない。
また、ラストシーン(335~336頁)の数学的・物理学的意味とは、数の存在するこの宇宙から、数が誕生する以前の新しい宇宙へと移動し、温度が低下して宇宙が相転移するときに私と数のどちらが生き残るのか、というもの。もし首尾よく私のみが生き残って数が存在出来ない宇宙になれば、数をもたない数学的構造に依拠した生命を見ることが出来るかもしれない。数をもたない数学的構造に依拠する生命は、数をもつ数学的構造に依拠する計算機には再現不可能なものである。
いま、この宇宙には数が存在するが、それによって見えなくなってしまっているものがある。このように、生命を理解するのはこの宇宙では不可能なので、生命を理解するために数を捨て去り、私は別の宇宙に向かう。なにかを失うことになろうとも、失ったことを知覚出来なければ不幸ではなく、恐ろしいことなどなにもない(333~334頁)。これが本作で少女がとった決断である。
あと、酵素とか Primegame とかの話が作中に登場するのは、どちらもみずからを変容させながらある一定の規則によって何かに作用し、変化させる存在であるから。そして変遷を繰り返しながら少女が突き進むのは、すべてみずからであるところの生命というものを理解するため。すなわち、還元主義的自己言及である。
こうして「ムーンシャイン」を読み解くことで、やはりわれわれは円城塔作品の最も特徴的な題材である自己言及を得るに至る。生物学・数学・物理学・計算機科学という系で相互参照を行い、さらに文学という系をも利用することで、生命を知ろうとする生命という自己言及的題材の面白さを描ききる。さすがです。
感想(追記分)
Conway's Prime Producing Machine には随分てこずった。結局作品理解には必要なかったし、異常に難しいしで大変だった。まあ、Primegame を理解すること自体がものすごく面白かったのでよしとしておこうと思う。
そして読み進めた結果、最終的に生命を巡る自己言及に行きあたったのは本当に面白かった。やっぱりそうだよな、自己言及に行き着かないなんて考えられないよな、という感じ。これだから円城塔作品を読むのはやめられない。
あとは、自分の中の“なにか読み切れていない感覚”が確かに機能してよかったな、という感じ。元の文章を書いた時点でチューリングマシン関連のエピソードを導入した理由が見えなくて疑問に残っており、これが物語に直結しないという判断が正しかったということも含めて、自分の読みが正当なものかどうかをはかるいい機会になってよかった。今は自分の持てる最高のものを発揮して読みつくせた、という達成感に満ちていて、全力をもって作品に対峙するという経験をまたひとつ重ねることが出来てものすごく楽しかった。今後も傲ることなく、みずからの読みを常に精査しながら読んでいけたらと思う。
円城塔が「ああいう法螺の吹き方はできなくなった」というのは、還元主義的姿勢をとることなのかなと思う。あらゆる自然科学の上に物理学と数学が君臨するというのはかなり傲慢な考えだし、実際うまくいっているかというと無論そうではないわけで。ただ、SFのアイデアとしてはものすごく面白いのでそれでよし。
また、以前“円城塔の問題意識というか、関心は割と物理学を学んでいるとどこからか湧き出てくる疑問に近いものがある”と書いたのは、この還元主義的姿勢を円城塔作品から感じることがあるから。個人的に還元主義は真だと思う一方、物理学的な厳密性を備えた物理学的アプローチは困難であるとも思う。でもSFでなら存分に法螺を吹いても構わないし、むしろ盛大にやってもらった方が面白くなるし評価も高くなる。
現在、「内在天文学」について詳細な検討を行なっていて、それもほぼ形になっているような状態なので、時間を見つけて早めに仕上げ、いよいよ『Self-Reference ENGINE』『Boy's Surface』の検討に移りたい。
いやあ、楽しかった。作中で使ってる数学が簡単かつ物理でも多用する馴染み深いものであったとはいえ、ここまで綿密に解体して深く理解出来たと強く感じられる作品ははじめてだったので大変勉強になったし、楽しかった。今後も円城塔作品に取り組む自信になったし、文学の人が円城塔を詳しく検討するための材料も十分に提供出来たと思う。
ただ、実のところ、検討しなければならないものがまだ残されている。共感覚の多重暴走というのがそれで、これが圏論で記述出来るんじゃないか、という話が仲間内から上がってきた。もしこの試みがうまくいくようなら、かの凶悪な「Boy's Surface」のレフラー理論も圏論を用いて同様に整理出来るかもしれない。さっそく圏論の自主勉強会をはじめたので、しばらく待っていただけると仲間内から面白いものが出てくるかもしれない。(かもしれない連発)
最後に。こんなに面倒くさい Conway's Prime Producing Machine を理解するのに連日夜遅くまでとことん付き合ってくれた友人IとKに深く感謝する。圏論ゼミでもよろしくお願いします。
円城塔「ムーンシャイン」は『日本SFの臨界点〔恋愛篇〕』(伴名練編、ハヤカワ文庫JA、2020)及び『年刊SF傑作選 超弦領域』(大森望・日下三蔵編、創元SF文庫、2009)収録。後者は現在品切で新刊での入手は困難。
参考文献
[1] ジョン・H・コンウェイ、リチャード・K・ガイ『数の本』、丸善出版
[2] Conway's Primegame, from "The On-Line Encyclopedia of Integer Sequences® Wiki"
*1:のち肯定的証明がなされ、現在では量子重力理論の対称性の記述に使われるとか使われないとか。(ここまでくると私もわからない)
*2:ムーンシャイン理論、およびモンスター群に関して簡単な解説は
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/keywords/12/05.html
*3:例えば、量子力学ではトンネル効果、相対論では重力レンズ、ウラシマ効果
*4:例えば自由意志については観測者効果、万能感については不確定性関係
*5:例えば、量子重力におけるモンスター群、カオス理論そのものなど。
*6:正確には
*7:系に連続的対称性(連続変換)が存在するならば保存量が存在するという Noether の定理による。Noether の定理は素粒子論において特に重要視される。
*8:英語文献で勉強してきたので、多分に間違いがあるかもしれない。もし私が誤解している点などあれば、忌憚なく指摘していただきたい。
*9:Primegame において、各素因数は整数乗の形で現れる。整数は可算無限個存在するので、記憶領域も可算無限となる。
*10:たとえば1, 5, 7, 11, 13, 17, 19, ...。5, 7, 11などはPrimegame でメモリとして使われている素因数。一方、バグを起こすような素因数を含まない任意の合成数は許される。
*11:この場合、素数は97の指数として得られるようになる。
*12:生物物理学の基本的な考え方のひとつ。生物だって物質の集合であるから物理法則に従うはずである。