SF游歩道

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研究雑感

優れた学者の文章などを読んでいると、学者は研究対象について寝ても覚めても考えつづけられるような人間でなければならないという旨の文章をよく見かける。これについて、自分はずっと嘘だと思っていた。というのも、研究は自らのもつ知的能力をひとところに集中することによってなされるべき行為で、日常生活のうちで半ばぼんやりと思いを巡らした程度のものに全神経を集中した思考より優れているものなどないと思っていたからだ。しかしながら、実際に物理学と文学のふたつの領域で研究(の見習い業務)に従事してみて、学者たちのいうような、一日中研究対象について考える行為こそが全力の思考を下支えするものなのだということを、身をもって理解しはじめてきている。

一般に、研究を行うときに働かせる思考は、日常生活を送るために用いる思考とは様々な面で異なる。研究を行うときはもちろんその細部まで矛盾がないか、論理の飛躍がないか定性的・定量的に議論を重ねるような思考を行うが、日常生活でそんなことをしていたら何をするにもいちいち時間がかかってしまって生活が立ち行かなくなる。なので自然両者の思考は切り離されるわけだが、この日常の思考とは異質な、研究のための思考というものをこそ日常のものとしない限り、研究対象を肌に感じるような感覚はえられない。

思えば、学部4年間の生活はこの異質の思考を日常に浸透させるためのものだった。いまここに立っていられるということから電磁ポテンシャルに感謝し、歩くときには作用と反作用を思い、その作用と反作用を他人が観察するという状況の考察を通じて相対論に遊び、日々の演習や講義を通じて理解出来無い物理を一日中考え続け、また友人と物理の話や冗談で楽しむといった、生活のすべてが物理に還元されるような生活は、物理学科以外ではえられなかった経験だった。大学に入学したてのころ、物理学系の新入生オリエンテーションで“ひたすら物理だけを考え、物理をやるのが当たり前の世界で4年間を過ごすことが代えられない財産になる”という話を聞いてはいたが、それが本当に価値あるものだと気づいたのは、こうして大学を卒業してからのことになってしまった。

自分の研究対象について一日中ずっと考え続けるというのは、もちろん元々好きであるなら自然な話だろうし、もしそうでなくともずっと考え続けることを習慣づける努力によって達成されることだろう。とはいえ、人間の脳は研究のための思考を支えられるような作りにはなっていないので、研究に従事するまでの日常的な生活を基盤とした20年以上にもおよぶ習慣を克服するためには年単位での経験が必要だろう。なかなかその姿勢が得られないからこそ、またその姿勢によって得られるものが大きいからこそ、多くの学者たちが異口同音にその姿勢についての文を残す、ということのなのだろうと思う。

こんな文章を書いているのは、実は円城塔がこの姿勢をついに手に入れることがなかった、と書いていたから。本人はそう書いてはいるが、自分の目からしたら円城塔も相当その姿勢に飲み込まれた人のように見える。例えば「ムーンシャイン」はその姿勢に飲み込まれてしまった人の視点から、超常的数学能力のさらにその先へと一歩踏み出す様を描いた物語であったし、「良い夜を持っている」は生まれつきその姿勢に閉じ込められてしまっていた父の姿を追う物語であった。また、円城塔の作品にはテクスト自体が景色として見えていないといけないような「天書」「リスを実装する」「これはペンです」のような作品群もあり、先の記述はなかなか疑わしい。あるいは、自分がその姿勢を得られなかったからこそ、作品の中ではその姿勢であろうとしているのかもしれない。