劉慈欣『三体』の第17章を抜粋・改稿した短篇「円」について、その普遍性と中国性、そして儒教の影響について軽く書いていこうと思う。
この作品は私が中国SFに興味をもつきっかけになった作品なので、非常に思い入れが強い。それだけ好きな作品なのに、まだ自分の言葉で整理された文章を書いたことがなかったので、ここにひとまずまとめておこうと思う。
この文章で特筆すべきは、「円」及び『三体』における儒教の影響を論じた点である。これは他では見かけなかった記述なので、この文章がなにかのきっかけになればとも。
要旨
「円」の魅力は普遍性と中国性を両立しているところにある。人力論理回路の構築を人海戦術で成し遂げるというアイデアは、科学的に実現可能かつ中国らしさに溢れた秀逸なものである。
また、この中国らしさが表面的なものではなく、中国の古典などにも見える本質的な中国らしさによるものであることも高く評価出来る。
さらに、本作の主人公である荊軻は、中国でいまなお重視される儒教における五常(仁義礼智信)をすべて満たした理想的な人物として描かれている。
これらのことから、本作はまさに現代中国SFを代表する普遍的で根源的な魅力をもった作品であると言える。
精査
ここで、要旨に掲げた普遍性と中国性、そして儒教の影響について詳しくみる。
普遍性と中国性
本作のメインガジェットは、人海戦術によって構築された人力論理回路である。これは本作の舞台である春秋戦国時代においても実現可能なアイデアであり、非常に普遍的なアイデアである。
この人海戦術で人力論理回路を組み立てる、という解決手段がいかにも中国的である。これも、人海戦術だけで中国とは断じられない*1ものの、はじめから三百万などという膨大な人数がぽんと投入されるのがいかにも中国らしい。
そしてその計算機をもって求めようとしているものが、天の理(円周率)を知ることで得られる永遠の命、というのが仙術的であり、すなわち中国的である。一方で、円周率を求めるように秦王に提案した際に荊軻が提示した理由はボルヘス的かつピタゴラス的でもあり、中国一辺倒というわけでもないのが魅力的である。
このように、この作品はどこをとっても中国的でありながら、どこをとっても普遍的である。本作は、決して安易なオリエンタリズムや安直な人物造形に頼るのではなく、物語の根幹から中国文化の本質的な魅力が自然と立ち上がるように配置されていることで、普遍性と中国性を両立している。これは中国文化をその他の文化に置き換えたとしても成り立つべきものであり、近年海外進出著しい中国SFを象徴する最高の例として大いに学ぶところのある作品であると言える。
儒教の影響
本作の主人公荊軻は、儒教における五常(または五徳)をすべて満たす人物として描かれている。
五常とは、
- 仁:人を思いやること。
- 義:私利私欲にとらわれず、なすべきをなすこと。
- 礼:礼儀や上下関係を重んじること。
- 智:賢いこと。
- 信:誠実であること。
である。これら五つの徳目にのっとった言動をすることで、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)の道をまっとうし、秩序ある正しい社会を構成することを目指す。
それでは、実際に荊軻がこれら五常を満たしているかを確認する。なお、順番は前後する。
まず智について。荊軻は物語を通して疑いようなく賢いので、これは確かに満たしている。
次に仁について。荊軻にとって、暴虐の王政を除くことはその下で苦しむ民を救うことに他ならず、確かに満たしている。
義について。物語終盤において、秦を計算陣形によって滅ぼした荊軻は、燕王に計算陣形の構成を奏上する。これは私心からではなく真の忠誠心の現れであり*2、荊軻は確かにこれも満たしている。
最後に残った礼と信について、荊軻は一見背いているように見える。冒頭の、主君である燕の太子丹の命に背き、秦王の暗殺を拒んだばかりか秦王に降った場面がそれである。これは明確に礼に反しており、またのちに秦王を欺き死に追いやったのは信に反する。しかしながら、これらの言動はすべて礼と信にかなったものであり、むしろ仁である。
すなわち、主君である丹の命に従うことが礼であるなら、暴虐ながらも俊英なる政に敬意を抱くのも礼であり、より大きな仁をなすためであれば一時の不義不忠も信なのである。
これに似たものに、『三国志』における関羽のエピソードがある。関羽が戦で捕虜となり、一時的に曹操に仕官していたエピソードだ。この時、関羽は劉備を裏切ったのではなく、降ることを拒み志半ばで果てることを一番の不義不忠として避け、助命された分の奉公をするつもりで曹操に降ったのだった。実際、関羽は敵将(袁紹配下の顔良)を斬り、恩に十分報いたとして曹操から離れて劉備の元へと帰参することになる。
感想
はじめに書いたように、「円」は私が本格的に中国SFにのめり込むようになったきっかけになった作品であり、また様々な人との出会いのきっかけになった作品でもあり、非常に思い入れのある作品。
大本のきっかけは、SFM2017年6月号のアジア系SF作家特集を読んだことだった。元々はこの号から連載がはじまった『筒井康隆自作を語る』を手元に置いておきたくて買った*3だけで、特にこの特集が目当てではなかった。お目当ての筒井を読み終えた後、改めて目次を眺めたときにヒューゴー賞受賞作である郝景芳「折りたたみ北京」が掲載されていると知り、読んでみた、という感じ。
これを読んだとき、未来感のある描写が続く中、同郷の人間を優遇するといういかにも中国という感じの、それでいて少々封建的な描写がさも当然の如く両立している、というギャップに非常に強い関心をもった。
もちろん、ケン・リュウ「母の記憶に」も陳楸帆「麗江の魚」も面白い作品であったが、印象に残ったのは「折りたたみ北京」に見えた中国性と近未来的ヴィジョンの奇妙な融合だった。(この点、ケン・リュウは求めているものとは似ているようで明確に異なる)
そこから、『三体』のヒューゴー賞受賞の報を聞いていてもたってもいられなくなった私は米国で出版されたケン・リュウ編中国SFアンソロジー"Invisible Planet"(邦題『折りたたみ北京』)に『三体』からの抜粋である「円」が収録されていると知って、早速読んだのだった。
これがとにかくよかった。英語で読んでいるのにものすごく中国的で、しかもこのうえないほど普遍的だった。それまでに読んできた中国の古典で出会ってきたものが、SFとして装い新たに、それでいて本質はなにひとつ変わらないままにそこにあった。これがたまらなく面白かった。
大量の人間を動員して計算をさせる、というアイデアは日本で既に前例があった*4が、この作品がすごいのは、いかにも科学的に実現可能そうな雰囲気を湛えているところ。実際に実現するにあたっては、回路のクロックを一致させるのが非常に困難でありそうなことと、そもそもメモリやバッファをどうするのかが不明瞭なこともあり一筋縄ではいかなそうだが、それでも先にあげた先行例のように単純に計算手を増やすというアイデアよりははるかに説得的。これには英語の小説を読んでてはじめて声を上げて大爆笑したし、はじめて他人に原文を勧めることになった(この当時は当然嫌がられたが、のちに「早く読めばよかった」との言葉も勝ち取った)。
上の方でもちょこっと書いたが、この作品の荊軻は関羽に重なって見えるところがあって、『三国志』『史記』をはじめ、中国の古典で読んできた中国のあの論理にまさか現代のSFで出会えるなんて、という思いもよらぬサプライズがあってものすごく熱中した。そもそも荊軻という人物自体も、高校までの漢文で何度か触れていたので、それがいまSFとして読める、ということにものすごく興奮した。
そしてこの、荊軻=関羽説をSF研の後輩である天津に話して、その場で意気投合したのをよく覚えている。失礼ながら、中国人って本当に関羽好きなんだなってのと、『三国志』とSFを介して現代の日本人と中国人が交流出来るのか、という発見もあり、ものすごく楽しかった。本当に、いろいろな思い出もつまった思い入れのある作品だ。余談だが、私が好きなのは魏の曹操であり、蜀はそんなに好きではないが関羽は好き。
荊軻もいい人物だけど、秦王政も帝王にふさわしい大器をもつかっこいい人物なんだよな。自分の命を狙った荊軻に対して、いまここで死んだものとして、その才を余のために役立てよ、なんてかっこいいにも程がある。(史実では散々逃げ回って珍騒動だったらしいが)
大好きな作品なのでつい語りすぎてしまった。
ともかく、これではじめて自分の言葉でこの作品について整理出来た。この文章を元に、評論としてより客観的な形で公開することが出来れば、とも思う。