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円城塔試論Ⅱ「『文字渦』完結以後の作品の位置付け」

『文字渦』(2018/07/31刊行)完結以後の円城塔作品について、その位置付けについて検討を行う。随時追記予定。

『文字渦』完結後に発表された作品群

以下、『文字渦』完結後に発表された作品をいくつか挙げてその位置付けについて検討を加えるが、挙げた作品がすべてではなく、網羅とは程遠い。細かい元ネタ探しやより詳しい読解メモは All-Reference ENGINE 各項目を参照のこと。

「歌束」「わたしたちのてばなしたもの」

それぞれ《新潮》2019年1月号、《群像》2019年2月号。文芸的作品。

この2作で円城塔が取り組んでいたのは、おそらく小説の“公理系”の探究。『文字渦』で文字・日本語・小説の限界を探究していた円城塔は、いま自らが用いている小説というものがどのような表現を許すものなのかという疑問を抱いたのだろう。いま扱っている手法や系がどのような操作を許すものなのかということを調べるならば、まずその手法や系を定めている公理系を調べなければならない*1。これは数学や物理学においては極めて一般的な感覚で、高等教育の至る所で心身に叩き込まれるものである。実際、初期作品にはわれわれが素朴にもつ小説への先入観を弄んだものが散見される(例えば『AUTOMATICA』「これはペンです」)。

思えば、なにかを議論するときに well-defined な定義を与えるのは当然のことなのだが、なぜか文学では気にされなくなる。円城塔作品に頻出する補集合的言及*2は扱いたい事象の全事象が得られる場合(=排中律の採用)でないと成り立たない言及であり、常に許される言及の仕方ではない。初期作品ではこの補集合的言及が素朴に導入されているケースが多く、逆に近年の作品だと明確に顔を出すことが少ない。後述する「男・右靴・石」はその点近年では珍しいタイプの作品で、数学的・論理学的に理解不可能な事象を意識して扱っている作品。

また、円城塔の翻訳もこの小説の“公理系”を探る試みの一貫であったという解釈も出来る。現代口語文、理学書の翻訳文体、文語文がそれぞれ張る“意味空間”はもちろん違うことが期待されるわけで、それがどのような差異によって生じたものなのかを探る試みが翻訳だったのではないだろうか。

なお、「歌束」に関しては「かな」で用いたスクリプトがもったいないから流用した、みたいな節もある。

「歌束」は竹書房文庫『ベストSF2020』に収録されている。

 

「虚実の間に」

《世界》2019年2月号。フィクション論。

フィクションの存在によってはじめて人は心を得るのだと円城塔は主張する。これは『屍者の帝国』で用いた受動意識仮説をさらにおしすすめたものといえる。フィクションになにが出来るのかということを内部から測るのではなく、外部から規定された条件によって探る試みか。

 

「書夢回想」

SFマガジン》2019年4月号。現状、ジャンルSF作品の最新作。

題名は小松左京「虚無回廊」のもじりだが、内容自体には関係がないような気がする。不思議な本屋が売ったらしい不思議な本の話で、どうも上記「虚実の間に」と繋がっていそう。

 

「for Smullyan」「店開き」

『kaze no tanbun 特別ではない一日』収録。

前者はあからさまに数理論理学を題材とした作品。「は印刷可能」を「は証明可能」と読み換えると、Gödelの第一不完全性定理になる。Smullyanは数理論理学に大きな足跡を残した数学者で、Gödelの不完全性定理の教科書や、数理論理学の教科書を書いている(邦訳あり、ただし円城塔は訳の質をあまり評価していないようだ)。本作が題材としている命題は『SRE』冒頭の「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。」と数学的にほとんど等価。つまり、本作の議論から、『SRE』冒頭のこの文章は明らかに偽。すなわち、『SRE』は冒頭で大嘘をぶち上げており、これまでの読解は全て数学的に完全に的を外したものであったというとんでもない主張を、円城塔本人が行っている。ちなみに、印刷不可能な文が印刷されていることに対して「印刷出来てんじゃん」とつっこむのと、不完全性定理に対して「証明出来てんじゃん」とつっこむのは数学的に大体等価。

後者もあからさまに論理学を題材とした作品。一見回答不能に思われる問題でも、回答不能ということが情報として機能し、結果回答出来るというメタパズルを題材とした作品。本作を素朴に解釈することは困難だが、本作も同様のメタパズルであると仮定すると、“「メタパズルを題材に作品を描こうとしたけどまとめきれなくて楽屋ネタになってしまった作品」というメタフィクションとして読まれるように書かれた作品”というように解釈可能。まとまりよく解釈出来るので、メタパズルという解釈は多分合っていると思う。円城塔作品には非常に珍しい、メタ構造をもつ作品ということになる。

 

「男・右靴・石」

《MONKEY》vol.20(2020年春号)。探偵小説(?)。円城塔本人がTwitterで“「Boy's Surface」「文字渦」「男・右靴・石」は自分の中で一段階の感覚がある。”と発言した最重要作のひとつ。

一言で表せば、原理的に理解不可能なものだけで構成された小説。これまでの円城塔の作品は、難解でありつつも結局マシンパワーの増大によって喝破されてしまう程度の難解さ(例えば多重引用、晦渋極まる語り口、高度な数理科学的な知識、内輪ネタ的ギャグ)しか有していなかった。そこから一歩上のステージに上がったという点で、円城塔作品の中でも最重要作であると考えられる。

MONKEY vol.20 探偵の一ダース

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「この小説の誕生」

《群像》2020年8月号。Google翻訳を用いた実験小説。

たぶん理解したのだが、それをうまく表せない。言葉にすると誤解を招く可能性が高いので、原文にあたっていただきたい。

翻訳や読書という行為を、テクスト-行為者間の相互作用として説明しようという試みが円城塔作品には頻出する。本作はその翻訳方面における最も新しい取り組みであり、今後も注意する必要があるだろう。

 

「先生の手紙」

《MONKEY》VOL.22(2020年秋冬号)。幽霊小説。

“先生”なる人物から“手紙”を受け取ったという旨を記した《MONKEY》編集者への手紙をそのまま作品として掲載したもの。

本作に記載されていることはすべて真であると推察される。作中で言及されている「人の喪のおわり」が実在するらしいこと、“先生”なる人物が実在の数学者であること、“その本”が原啓介『眠れぬ夜の確率論』(日本評論社、2020)であること、またその“先生”が既に故人となっていることなどからこの結論に至った。

 

「固体状態」

『kaze no tanbun 移動図書館の子供たち』収録。

題の通り、固体状態に関するごく短い文章を3つ束ねた形式の短文。どれも一見して個体の話をしているようには感じられないかもしれないが、以下のように整理すると見通しがよくなる。

  1. 液体状態より固体状態の方が比重が大きくなるという例外的な珍しい物質である水、という表現自体が理学的な文章としては珍しいものだ、という話
  2. 金属の色は金属光沢(反射光)を含むので、色相・明度・彩度の3軸だけでは表現不可能、という話(固体物理学・物性物理学・統計物理学の講義の枕としてよく用いられる話題)
  3. 液体の岩石から成るマントルアセノスフェア)の上に固体の岩石から成るプレート(リソスフェア)が浮いているとして説明される大陸移動説およびプレートテクトニクスの話

つまり、物理学科の人間ならどこかで聞き馴染みのあるような話、ということ。

 

「距離のふたり」

《群像》2021年2月号。情報処理ネタの実験小説。

元ネタはWuらによる差分検出の o(NP)アルゴリズム。ちなみに、本作に登場する“距離”は編集距離というものであり、作中に登場する定義も数学的に正しい。もちろん、離散距離も実在する数学的概念。

ところで、なぜ「ふたりの距離」ではなく「距離のふたり」なのだろうか。『「距離のふたり」と「ふたりの距離」の距離』というネタを思いついたが、肝心の中身については特に何も思いついていない。

 

「ドルトンの印象法則」

『kaze no tanbun 夕暮れの草の冠』収録。

ドルトンの印象法則なる珍妙な仮定の下で、文章のふるまいを情報熱力学的に記述しようという試み。熱力学の枠組みを用いて読書という営みをテクスト-読者間の相互作用としてモデル化し、読書という系の保存量に注目して議論する。

ドルトンの印象法則は“印象”が保存量であることを主張しており、印象法則を認めると{”印象”、テクスト、読者}という3つの変数をもつ読書という系において、印象保存則の下でテクストの変化が読者の変化を起こすことが自然に示される。

本作の特徴は、これまで陰に主張*3していた”相互作用としての読書”に関する思考実験を実践しているところにあると思う。特に、文中で明らかに「Boy's Surface」のトルネド(青い証明)が登場するなど、『Boy's Surface』に繋がる要素が多く散見される。

 

「墓の書」

《新潮》2021年9月号。フィクション論的創作。

作品の主題は創作中の人物の死およびその墓に関する考察で、特に登場人物の死と密接な関係にある推理小説に関する話題が多い。後期クイーン的問題を示唆する記述あり。

関心の中心にあるのは創作中の人物がいかにふるまうかというところにあるように見える。この作品を読んで思い出したのは、円城塔が月村了衛『機龍警察 火宅』文庫版に寄せた解説

〔前略〕歴史には、気になるポイントからアクセスしても壊れないという強靭さがある。〈機龍警察〉シリーズはそうした時間と空間の広がりを備えており、登場人物たちは、小説のために物語を背負わされた人々ではなくて、人生のどの部分を切りだしても、固有の物語を持つ人々であり、シリーズは、その物語を整理して、一つの小説であるかのように見せている。

〔前略〕機龍警察に見当たらないのは、物語の中で物語の前提について語ってしまうメタフィクションのみだらさと言い訳がましさである。その種の濁りの少なさが、この時間と空間の広がりをひどく澄んだものにしており、ときに未来視とも思えるような視界の広さ、フィクションによる現実の先取りを可能としているのではないかと思う。 

つくづく、小説や物語といった表現方法がどのような表現までを許しているのかということに関心のある作家なんだなと思う。無論、作家という人間はそういう性である、という話ではあるのだろうけど。

余談だが、この作品を読んでいて、スタニスワフ・レムが(スタニスワフ・レムの)『完全な真空』に寄せた推薦文*4、“あらゆる書物は、それが押しのけ、滅ぼしてしまった無数の他の書物の墓である”を思い出した。

*1:公理系や定義を明確にしない議論は無意味である。

*2:非Aという事物を書き尽くすことでAという事物を記述する、というタイプの言及。「捧ぐ緑」「内在天文学」『Self-Reference ENGINE』「ムーンシャイン」など。

*3:例えば、《ヱクリヲ》8号収録のインタビュー、『Self-Reference ENGINE』、『Boy's Surface』、『文字渦』。

*4:河出文庫の初版帯掲載。