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円城塔「内在天文学」について

円城塔「内在天文学」について、具体的な計算を交えつつ、生物物理学・数理物理学・素粒子物理学にも触れながら詳細に見る。

以下、テクストとして河出文庫『シャッフル航法』紙版を用いる。

 

「世界というものは神々の興じる大いなるチェスのようなもので、ぼくらはその観戦者にすぎない。ぼくらはそのゲームのルールなんか知らないし、出来ることといったらその遊びを観察することぐらいしかない。もちろん、十分長い観察を経て、最終的にぼくらはいくつかのルールを見つけ出すことが出来るだろう。この“ゲームのルール”というものを、ぼくらは基礎物理学と呼んでいる。」(下村訳)

Richard P. Feynman, The Feynman Lecture on Physics, Sec. 2.1

 

作品概論

わからないものを知るために、様々な方策が考えられる。そのわからないものを直接調べてみる、というのが一番単純な方法だが、場合によっては対象を直接調べることなしに知ることが出来ることもある。

14~17頁にかけて議論される「エレベータのパラドックス」の解法がそのいい例になっている。この場合、わかっているのは自分のいる場所にやってくる列車が左右どちらから来るのかという確率で、知りたいのは自分のいる場所から“世界の端”までの距離である。これはごく簡単な確率の問題であり、確率と距離の両者の比をとることで容易に解ける。これが可能なのは、十分な観測と適切な立式(あるいは形式化)によるところが大きい。このように、答えを得る具体的な道筋が多少わからずとも、対象をきっちりと観察し、ある種の形式(大抵は数学)に落とし込んでしまえばあとはひとりでに解決してしまうことがあり、自然科学(特に物理学)では常套手段となっている。

先ほどの例では観測者である自分と観測したい系が独立していたが、観測の対象によっては、観測したい系に観測者自身が含まれてしまっている場合がある。たとえば、宇宙の姿を知るために宇宙を内部から観測する、ということのように。

人類は、この宇宙がどのような姿をしているのかということを、宇宙の内部からの観測のみによって解き明かしてきた。ただ、これはよく考えてみると不思議なことのように思われる。曲がった宇宙にいる観測者は、自分のいる宇宙が曲がっていることに本当に気付けるのだろうか。曲がった宇宙に合わせて自分も曲がっていて、この宇宙は曲がっていないと思っているだけかもしれない。

これを解決するのが、微分幾何学における空間の曲率という概念である。空間の曲率とは、字面通り、空間の曲がり方を示すもので、これは内在的な量(その空間の内部から観測可能な量)であることが知られている。つまり、この宇宙がどのような形をしているかという問題は解決可能なことが数学的に保証されている(Gauss の驚異の定理)。

さて、作中において、人類と他の知的存在との間で認知的ニッチを巡る熾烈な生存競争が行われていることが明らかにされる(23頁)。この競争によって、われわれの認知する宇宙はあたかもマクロスケールでも量子力学的振舞いを見せるかのように変容し、複数の認知状態間の遷移(ただし、離散的な状態ではなく、連続的な状態であると考えられる)を繰り返すようになる。右を向いていたはずなのに左を向きはじめたオリオン座、土星による月食、現れては消える月面都市。人を嘲笑うような凶悪な様相を見せる宇宙に対して、「僕ら」は諦めるどころか、認知的生存競争の発生以前の“古典的”な科学的思考によって宇宙を認識出来るとさえ考えている。この、人はその論理的思考をもって原理的に理解不可能な領域以外はすべて理解出来るはず、いや、絶対に理解してみせる、という頑強な姿勢が本作のSF的な主張。円城塔は、これまで自然現象に適切な説明を与えてきた物理学と数学を用いた“古典的”な科学的思考を信頼していて、またそれによって原理的に到達出来ない領域があることも理解している。文学に対しても同様で、その効能と適用範囲をある程度理解している。そしてこれらの相互参照によってなお原理的に理解不可能なもの以外に理解不可能とされるものの存在を許さないという執着が、円城塔の文学的な主張でもある。

記述可能なものを記述しつくすことによって記述不可能なものを記述しようという試みは円城塔作品に頻出する*1。これが可能なのは対象とするものにある種のいい性質をもつ制限がかかっていることに拠る。作中に出てきた例では「エレベータのパラドックス」がこれにあたり、全確率が1であることおよび排中律が制限である。

系になにかしらの制限が存在するならば自由が損なわれるので不都合なように思われるが、実際には自由であることの弊害は大きく*2、自由を失うことが数学や物理学においてはむしろ好都合なことがある*3。系になにかしら性質のいい制限をかけることは系の不変量や保存量に注目することに相当し、これらを用いて一般化を進めるという考え方は数学と物理学に共通する発想である。このことからも、円城塔が数理科学に基づいて創作を行っていることが示唆される。

さて、本作では、天文学というロマンチックな題材に由来する美しい情景と、理解出来ないなどという甘えは絶対に許さないという(一般的な読者にとっては意味不明な)不屈の闘志に由来する謎の叙情性が読者の足掛かりとして機能しており、本題である数学に保証された世界に関する理解可能性という面倒な話題に頼らずとも楽しんで読める構造が採用されている。

このような、難解な本題を据えながら、その本題と関連しつつも読み手へのフックとして機能するような小説的読みどころや心地よい文章をきちんと整備しているというのが、円城塔の小説の上手さ。無闇に難解なのではなく、しっかりと難解な本題へのアプローチもあり、本題に気づけなくても(そもそも普通の人は本題に気づかないであろう)楽しめるポイントありと、楽しみが多段階的に設置されているのが本当に素晴らしい。

もしわからないものが相手だったとしても、われわれは数学的構造と物理学的考察とを用いてそれがどのようなものなのかという予想を立てることが出来る。たとえ相手がなにものであろうとも、たぶん、私たちは理解していくことが出来る。本作はものすごくストレートな人間讃歌である。

 

検討

今回もAll-Reference ENGINE の「内在天文学」の項にメモを置いておいたので、本筋に関係のない元ネタ探しなどはそちらに記載してここでの記述を省いた。

エレベーターのパラドックス

いろいろとネットに上がってる感想を眺めていると、このエレベーターのパラドックス(14~17頁)のくだりでもうよくわからなくなった、みたいなことをいっている人がそこそこ見受けられた。とりあえず、文中にある議論はすべて正しいと明記しておく。これはごく簡単な確率の問題なので、等価な表現に直してささっと解いてみることにする。

長さ1の線分ABを AL : LB = l : 1 - l に内分する点Lを考える。はじめ線分上には線密度 \lambdaで粒子が一様に分布しており、この粒子が点LをAからBに向かう方向に移動する確率を p とする。線分の長さ(粒子の数)とこの確率との比を考えると、

 \begin{align} l \lambda : (1-l) \lambda &= p : 1-p \\ \therefore l &= 1-p \end{align}

よって、 l, p が互いに依存しているという関係が示せたので、どちらか一方を知ることが出来れば他方は自然に求まる。

認知的生存競争

認知的ニッチ

本作では、人類と他の知的存在とによる認知的な競争によってこの宇宙が遷移しつつある、という状況が語られる。これは、作中で明記されているように、認識論と生物学におけるニッチを足し合わせたアイデアである。

文中での記述に従えば、同じニッチを占める二種類の生物は、競争の結果、一方のみが生き残り、もう一方は完全に絶滅する。これは生物物理学・数理物理学で有名な数理モデル、Lotoka-Volterra の競争モデルに基づいたものである。これについて、これから実際にこの結論を導くことで、作中の記述が物理学的・数学的に正しいことを示す。以下、生物物理学・数理物理学に興味のない方は読み飛ばしていただいて構わない。

生物物理学について

まず、生物物理学とはどのような学問なのか、ということについて軽く触れておく。

生物物理学とは、生命現象に対して物理学的な観点からアプローチを行う学問である。この生命現象というのは、個体や細胞といった直接的なものから、集団や環境などの間接的なものまでを含む。

物理で生命がわかるというのは不思議なことだが、いかに生命現象が神秘的に見えようとこの世の物理現象は必ず物理法則に従うので、物理学的な考え方で生物を必ず理解出来るだろうということを考えると、別に不思議なことではなく、むしろ当然のようなことに思われる。

で、そのような生物物理学を創始したのが、かの有名なSchrödinger(1944, 『生命とは何か』)。Schrödinger方程式の完成で量子力学を完成させた(と当時考えていた)Schrödingerは非生命的な物理現象についての記述をすべて得られたと考えて、いよいよ生命の神秘に対して“完全な”物理学をもって挑んだ、という感じ*4

このSchrödinger以外にも、von Neumannも生命現象のシミュレーション(セル・オートマトンなど)に取り組んでおり、彼らの仕事は直接的・間接的に生物学の手法に多大な影響を与え、ついには生物物理学・分子生物学*5という新しい分野が誕生することになる。

Lotoka-Volterra の競争モデル

さて、作中の認知的ニッチの議論を数理モデルを用いて解析しよう。

まず、生態系の安定性を考えるために、生態系を含む一般の生命システムの安定性について考える。

生命システムは、連続的に変化する状態量の組で表されるとする。たとえば、細胞なら、細胞に含まれる化学物質の種類、その濃度、各分子の配置……。このような状態量を十分な数集めてきた組  A \{ x_1 , x_2, \cdots \} を用いれば、生命システムを状態空間上の一点で表すことで、変化に対する安定性を記述出来ることが期待される。

これから扱うのは、Lotoka-Volterra の競争モデルである。このモデルについて、ここでは以下のように定義する。

Lotoka-Volterra の競争モデル

  • 同一の資源を消費する2種の生物がいる。
  • それぞれの種はロジスティック方程式にしたがって環境収容力の限界まで増殖する。
  • 2種の生物が競合した場合、どちらかのみがある確率にしたがって資源にありつける。この競合はそれぞれの集団のサイズに比例して発生しやすくなる。

ここで、ロジスティック方程式とは

 \begin{align} \frac{dN}{dt} = r N (1 - \frac{N}{K}) \end{align}
 N:個体数
 K:環境収容力

今回具体的に扱うモデルは以下の通り。

 \begin{align} \begin{cases} \dot{x} = x (2 - x - y) \\ \dot{y} = y (3 - 2x - y) \end{cases} \end{align}

このモデルの解析を行うことは、2次元の状態空間のある1点がどのような軌道をとるかという問題を解くことに等しい。

2次元の線形解析

2次元の状態空間における最終的な軌道を求めることは、以下のように定められる行列  A固有ベクトルを求めることに帰着する。

 \begin{align} \boldsymbol{x} = e^{ \lambda t} \boldsymbol{v} \\ \to \begin{cases} \dot{ \boldsymbol{x} } &= A \boldsymbol{x} \\ A \boldsymbol{v} &= \lambda \boldsymbol{v} \end{cases} \end{align}

特性方程式

 \begin{align} \det (A - \lambda I) = 0 \end{align}
 \begin{align} \therefore \lambda_{ \pm } = \frac{ \mathrm{tr}(A) \pm \sqrt{ { \{ \mathrm{tr}(A) \} }^{2} - 4 \det(A) } }{2} \end{align}

 \boldsymbol{x(t)} の一般解は特解の線形結合で得られるので、

 \begin{align} \boldsymbol{x}(t) = c_{+} e^{\lambda_{+} t } \boldsymbol{v}_{+} + c_{-} e^{\lambda_{-} t } \boldsymbol{v}_{-} \end{align}
2次元の非線形系における解析

非線形系のとき、一般解を求めることは通常困難である。しかし、固定点近傍での線形解析を行うことで、その固定点がどのような特徴をもつ点なのかを知ることが出来る。

 \begin{align} \begin{cases} \dot{x} = f(x, y) \\ \dot{y} = g(x, y) \end{cases} \end{align}

として、固定点を  (x^* , y^*) と書く。すなわち、 f(x^* , y^*) = g(x^* , y^* ) = 0

固定点近傍での変位を  u \equiv x - x^* , v \equiv y - y^* と書く。

このとき  u, v が満たすべき式は、

 \begin{align} \dot{u} &= f(x^* +u, y^* + v) \\ &= f(x^* , y^*) + u \frac{\partial f}{\partial x} + v \frac{\partial f}{\partial y} + O( u^2, v^2, uv) \\ &= u \frac{\partial f}{\partial x} + v \frac{\partial f}{\partial y} + O( u^2, v^2, uv) \end{align}

同様にして、

 \begin{align} \dot{v} = u \frac{\partial g}{\partial x} + v \frac{\partial g}{\partial y} + O( u^2, v^2, uv) \end{align}
 \therefore擾乱  (u, v)
 \begin{align} \left( \begin{array}{@{\,} c @{\,}} \dot{u} \\ \dot{v} \end{array} \right) = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} \frac{\partial f}{\partial x} & \frac{\partial f }{\partial y} \\ \frac{\partial g}{\partial x} & \frac{\partial g}{\partial y} \end{array} \right) \left( \begin{array}{@{\,} c @{\,}} u \\ v \end{array} \right) + O(u^2, v^2, uv) \end{align}

にしたがって時間発展する。ここで、この2行2列の行列  A は点  (x^* , y^*) における Jacobi 行列であり、非線形系であっても Jacobi 行列を求めることで線形系の場合と同様の解析が可能であることが示された。

Lotoka-Volterra の競争モデルの解析

ようやく本題に戻る。

これまでの議論の通り、2次元の非線形系における解析は各固定点における Jacobi 行列  A固有値問題に帰結される。いま、求めたい系の Jacobi 行列  A

 \begin{align} A = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} \frac{\partial \dot{x} }{\partial x} & \frac{\partial \dot{x} }{\partial y} \\ \frac{\partial \dot{y} }{\partial x} & \frac{\partial \dot{y}}{\partial y} \end{array} \right) = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} 2-2x-y & -x \\ -2y & 3-2x-2y \end{array}\right) \end{align}

また、固定点の条件  \dot{x} = \dot{y} = 0 より、固定点は  (0,0), (0,3), (2,0) ,(1,1) の4つが得られる。これら4点について、それぞれ Jacobi 行列の固有値を求める。

このとき、固有値の組は符号の組み合わせによって3種類に分類され、共に正の場合は不安定、共に負の場合は安定、正負が混ざる場合はサドル点となる。

 (0,0) のとき

 \begin{align} A = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} 2 & 0 \\ 0 & 3 \end{array} \right) \end{align}
 \therefore 固有値  \lambda = 2, 3 なので、不安定。

 (0,3) のとき

 \begin{align} A = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} -1 & 0 \\ -6 & -6 \end{array} \right) \end{align}
 \therefore 固有値  \lambda = -1, -6 なので、安定。

 (2,0) のとき

 \begin{align} A = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} -4 & -2 \\ 0 & -4 \end{array} \right) \end{align}
 \therefore 固有値  \lambda = -4 (重解)なので、安定。

 (1,1) のとき

 \begin{align} A = \left( \begin{array}{@{\,} cc @{\,}} -1 & -1 \\ -2 & -1 \end{array} \right) \end{align}
 \therefore 固有値  \lambda = -1 \pm \sqrt{2} なので、サドル点。

これらと合わせ、軌道の幾何学的特性を考慮すると相図を作図出来る。以下に示すものが、今回見た系の相図である。

図1 相図
図2 相図の領域を塗り分けたもの。赤色の領域に属する状態は(0, 3)に、青色の領域に属する状態は(2,0)にそれぞれ吸引される。

不安定点・サドル点は白点、安定点は黒点で示した。矢印はその状態が時間発展する方向を示す*6。固定点である4点以外の状態の系は、最終的に安定点  (0,3),(2,0) あるいはサドル点  (1,1) に行き着く。すなわち、十分な時間が経過したのちの状態は固定点である4点しか存在し得ない。

この固定点について、くわしくみる。

まず、 (0,0) について。これは自明な固定点であり、この状態は2種類の生物のどちらもはじめから0匹であったことを意味する。この状態が時間発展によって変化しないことはあからさまに自明である。

次に、 (1,1) について。この状態は2種類の生物の個体数が完全に拮抗して安定していることを意味する。この状態は生物の個体数がこのまま不動であれば別の状態に変化しないが、たった1匹だけ増減しただけで別の状態に変化してしまう。すなわち、事実上の不安定点である。

最後に、 (0,3),(2,0) について。これらの状態は、2種類の生物のうちどちらか一方のみが生存し、もう一方は完全に絶滅していることを意味する。これらの場合、片方の生物しか生き残っていないので、明らかに安定な状態である。

したがって、完全に安定な状態は  (0,3),(2,0) という他者を滅ぼして自分だけが生き残るという意味をもつ状態のみに限られる。生物物理学・数理物理学が数学的に導いた答えは、同じ資源を必要とする生物種の共存は不可能、というものになる。これは「内在天文学」作中(23頁)の記述とたしかに一致する。

いい制限:素粒子物理学を例に

性質のいい制限によって問題を容易に解くことが出来るようになる実例として、既にエレベーターのパラドックスにおける確率と排中律を見た。ここでは、制限が存在することによって一般に知ることが出来ないものを知ることが出来るようになる実例として、素粒子物理学における新粒子探索を挙げる。

素粒子物理学では、知りたい粒子の性質を知るために、その粒子を大量に生成してその振舞い(崩壊モード、場との相互作用)を見る。しかし、電気的に中性な粒子であるニュートリノ弱い相互作用以外の相互作用を感じないので、一般にそれ単体で検出することは困難である*7加速器実験でどのようにニュートリノ(あるいはごく短命の粒子)のような粒子を検出するかというと、検出出来る粒子をすべて検出して、運動量保存則やエネルギー保存則から欠損分(すなわち検出出来ない粒子が持ち去った分)を求め、ほかのパラメータと比較することで逆算的に検出している(これを粒子の再構成 (reconstruction) という)。

この方法は既に存在が実証された粒子に対してだけでなく、標準模型を超えた未知の粒子に対しても行われる。標準模型を超えた粒子は、既知の相互作用を感じない粒子かもしれないが、それでも、わかるものを取り去っていってわからないものがどのようなものなのかということを定量的に知ることが出来る。この姿勢が円城塔の創作に関する姿勢に似ているというのは単なるアナロジーに過ぎないが、それでも円城塔は物理学っぽい考え方に基づいて考えている気配がある、ということを述べるには十分だろう。

余談だが、補集合を記述し尽くすことで集合を記述出来るのは排中律を公理として採用していることによるもので、排中律が含まれない公理系においては成立しない(直観主義論理)。円城塔作品の中にはこの直観主義論理に接近していることを伺わせる作品*8があり、実際、難解とされる「Boy's Surface」のトルネド理論は圏論に基づいている可能性がある。このように、補集合を記述し尽くすことで集合を記述しようという試みは円城塔作品すべてで共通しているわけではなく、一作一作に対して慎重な検討が必要となる。

 

感想

今回も楽しかった。この作品、「ふざけんな、絶対にお前(自然)を理解してみせるからな、覚悟しとけよ」という意味不明な闘志が見える一方でエモさもあり、それらを両立させるあたりさすが円城塔という感じ。円城塔作品に対しては出来れば最初から最後まで分析的態度を崩したくはないのだが、あるところを境に感情的・感覚的な言及しか出来なくなる領域が作品に確かに存在して、分析的態度では手も足も出なくなる。このように、物語というものには外部からの独立した言及では到達不可能な領域が存在するからこそ、円城塔は物語を書いているのだろうと思う。これからも継続的に円城塔作品には取り組むが、難しい仕事でしょうね(他人事)。

実は最初に読んだときは自己言及が存在するのかどうかよくわかっていなかったのだが、題名に内在とあることから自己言及に、エレベータのパラドックスと Lotoka-Volterra の競争モデルを解いたことから例の補集合的言及にそれぞれ気付きこの記事を書くに至った。作品に登場する要素が一点に向かって収束していく様は圧巻で、円城塔の作品を読むことの至福を存分に堪能出来た。これを独り占めしとくのはもったいない(そしてなによりも他人に話したい!)ので、こうして記事にした次第。

今回はSFに関する解説に加えて、物理や数学のもつ威力がどのように生じるかという過程と、その威力が発揮される瞬間について書いてみた。物理とか数学をやってるとこんなものまで形式化出来るのか、ここまで精度良く記述出来るものなのかと驚くことが多く、それがものすごく楽しい。

私がSFを好きなのは、ひとつはSFがなにかしら普遍なものに取り組んでいるからで、普遍なものを求める過程で作者が意図していないであろう普遍でないものがぽろっと作品に出てくることがまた面白いから。このなにか普遍なものを扱うのは科学に由来するもので、科学と物語が結びつくことで互いが語り得ないものを補い合ってより完成度の高い物語を見せてくれるからSFを読み続けているのだろうなと思う。

と、ここで円城塔作品に対する私の読みの危うさを指摘するとすれば、基本的に自分の専門である物理学、特に素核の方にテクストを引き寄せて考えがちであるということか。ここのあたりの扱い方は非常に難しく、なるべくテクストに対して公平な読みをこころがけてはいるものの、そもそも完全に公平で正当な読みなどありえないのだから最大限引き寄せて私の手で解体出来る部分はすべて解体し切った方がいいのではとも考えている。円城塔の作品に取り組む人が増えれば総体として客観性を保っていけるだろうし、取り組む人数を増やすためにも円城塔作品を詳細に検討することが重要だろう。今後も継続したい。

最後に、今後の展望について。これで当面の目標としていた「ムーンシャイン」「内在天文学」の詳細な検討を完遂したので、次はいよいよ本丸『Boy's Surface』『Self-Reference ENGINE』の研究を行う。ただ、これらの作品を理解するのに必要な数学と物理の勉強がまだ済んでいないので、少々時間がかかりそう。本業の研究などもなかなか進捗がまずいので、しばらくは潜航して細々と活動を続けていくことにする。あるいは、京フェスなりSFセミナーなりで円城塔解説部屋みたいな企画を主催して、集合知に頼るのもありかもしれない。いずれにせよ、本業の方に目処をつけておかなければならないのだが。

 

【追記】(2020/10/27、11/3)

本記事を公開して20分ほど経ったのちに、円城塔が意味深なリンクをツイートをしていた。

リンク先はWikipediaの"Endophysics"、和訳すると「内在物理学」。これは系の内部からの観測しか行えない場合の物理学のことで、「内在天文学」初出時の英題が "Endoastronomy" ( Terry Gallagher 訳、早川書房『THE FUTURE IS JAPANESE』収録)だったことを考えると、この読みは少なくとも大外しはしていないように思われる。

このリンクを投下した意図を理解したので、再度追記。円城塔は、そもそも複雑系に“内部観測”という概念が存在することを伝えたかったのだと思う。観測したい系に自分自身が含まれている、すなわち自分の観測によって系が変化してしまうような観測は非常に取り扱い方が難しく、複雑系ではこのような観測に関する議論が積極的に行われているらしい。これについては複雑系についても勉強しなければならないので、自分のものにするにはまだまだ時間がかかるだろう。それにしても、内部観測についてまったく知らない状態からよくここまで精度のいい解説が書けたものだと、われながら驚いている。これは自分が行った物理学的考察と読みが精度のいいものであったことの証左。これに奢らず、今後とも検証可能な科学的な読みを徹底したい。

 

*1:例えば『Self-Reference ENGINE』「ムーンシャイン」「捧ぐ緑」。

*2:例えば三体問題。三体問題の場合は系が持つ自由度6に対して保存量が足りないので一般解が存在せず、解析的には解けない。一般に、多自由度系の解析を行うことは困難である。それこそ、円城塔の専門であった複雑系のように。

*3:書きながら、安部公房「鞄」を思い出した。

*4:俗に物理帝国主義あるいは還元主義と言われるやつ。この世はすべて物理法則によって記述されるので、すべての自然科学を物理学に還元したのち、その物理学が完成されればそれにともなって他の分野もすべて完成される、という考え。Pauliは「量子力学によって化学は用無しになった」という旨の勝利宣言を残していたりする。とはいえ、物理学に基づく厳密な計算(たとえば第一原理計算)で化学法則を正確に記述出来るかというとそうとは限らず、物理学による化学の完全な植民地化すら未だ成されていない。

*5:Watson、CrickらによってDNAの分子構造が決定(1953)され、生命が分子に依っているという確証が得られて以降、分子生物学は飛躍的に発展することになる。もちろん分子は物理法則にしたがうので、物理学的なアプローチが有効であると考えられた。

*6:矢印の向いている方向は坂の傾いている方向と考えていただきたい。

*7:カミオカンデ(現カムランド)やスーパーカミオカンデは巨大な装置で希少な現象を無理矢理見えるようにしている。普通無理。

*8:例えば「パラダイス行」。