SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

読書録抜粋17

学部入学以降付けている読書録からの抜粋その17。すべてノートに万年筆で一発書きなので文章はところどころで破綻しているが、それも当時の味ということで。コメントは現在のもの。

 

2019.12.3 中村融山岸真編『20世紀SF1』河出文庫

改めて、はずれ作がない。一番の収穫はC・L・ムーアの「美女ありき」。表面的なサイバーパンクではなく、変容のサイバーパンクの先駆的作品というのがきちんと理解出来たと思う。ムーアの短編集はすべて止まっている。ムーアがまた読まれるようになって欲しいと思う。字が異様に汚いのは寒くて手が動かないから。気にせずに。

コメント

いわゆるSFらしいSFが多く収録されている。とはいえ古びているわけではなく、クラーク「時の矢」は当時最先端の科学的思考であるシュレーディンガー『生命とは何か』の “負のエントロピー”に影響されたものだし、ブラッドベリ「万華鏡」は宇宙のロマンと命の儚さを叙情的に描いた歴史的名作である。あとブラウン「星ねずみ」は現在では絶対書けない類の作品。

他にも色々と書きたいことはあるが、この『20世紀SF』というアンソロジーシリーズの第1巻に収録された作品として、ムーア「美女ありき」は外してはならない。本シリーズは明らかに80年代を扱った5巻のギブスン「冬のマーケット」を頂点に戴く構成となっており、全体のテーマとしてメディアとアイドル、そしてサイバーパンクが掲げられている。この「美女ありき」は、40年代に発表された作品ながら、外部(身体)の変化によって内部(精神)が変貌するというサイバーパンクの本質的なアイデアを扱っており、サイバーパンクの先駆的発露として極めて重要な作品である。

 

2020.1.9 中村融山岸真編『20世紀SF2』河出文庫

ヘンダースン、シマック、ベスター、コーンブルースが収録されているのがいい。一番を決めるとなるとやはりブラッドベリ「初めの終わり」。ヘンダースン「なんでも箱」、アンダースン「サム・ホール」も捨てがたい。捨て作がないのがいい。

コメント

ブラッドベリ「初めの終わり」が素晴らしい。人類が地球に縛られていた時代を“初め”であるとし、ロケットが次々と飛び立っていく情景でその“終わり”を描く。ブラッドベリが心から愛したロケットというモチーフ、そして当時の人々が持っていたであろう未来に対する無責任とも言える希望。これを極めて短い文量でまとめ上げる手腕。まさに50年代以降の、科学が未来を切り拓いていく時代の到来を描いた現代文学の名作として語られるべき作品である。

科学が猛威を振るいはじめた時代とはいえ、この時期のSFが主に依っていたのは低級な雑誌などであったりする。なのでこの本の収録作の多くはアメリカSFの黄金期を代表するエンタメSFであり、SFの原初的な想像力を楽しめる一冊となっている。むしろ最初に挙げた「初めの終わり」の文学性が特異点的だとも言える。

 

2020.1.17 中村融山岸真編『20世紀SF3』河出文庫

今回も良かったが、ニューウェーヴの時代に入ってきたので少々分かりづらい作品が増えてくる。ゼラズニイディレイニー、ディッシュがそれにあたる。一番はやはりバラード「砂の檻」。『ヴァーミリオン・サンズ』的な情景の中で、宇宙開発に憎悪と愛着の両面をもって執着する語り手たち、紅色の砂に埋もれていく灰色の廃ビルから見上げる緑白色の流星、そしてそのどれもが汚染に裏付けられた美というのが素晴らしい。そして宇宙開発の象徴であるケープ・カナベラルを、砂丘に埋もれた錆びた鉄塔として登場させることで、オールドウェーヴへの痛烈な批判としている。本当に素晴らしい。クラーク「メイルシュトレームⅡ」、ラファティ「まちかどの穴」も良かった。

コメント

1960年代を扱った3巻では、従来の科学的なSFに代表されるオールドウェーヴと、それに対抗したニューウェーヴが共に収録されている。極めて理解しにくいニューウェーヴではあるが、『20世紀SF』をはじめから読んできたのであれば、その思想を十分に理解出来ることだと思う。ニューウェーヴは一種のカウンターカルチャーであるので、SFの文脈を十分に理解しないことにはなかなか理解し難い。なので、時代順に選ばれた良質なSFを追うことの出来る『20世紀SF』が最良のニューウェーヴ入門だと考えている。

さて、ニューウェーヴ最良の作品は上に書かれている「砂の檻」であると考えている。ブラッドベリ「初めの終わり」が称揚したロケットを完全に否定し、放棄され朽ち果てた宇宙港こそ美しいと主張する。外宇宙の探査ばかりに目を向けたがる人類の節操のなさを批判し、内宇宙(人間の内部、精神世界)こそ人類が探究するべきだとしたニューウェーヴの思想を直接かつ美しく作品として完成させたのが本作である。

その一方で、王道ハードSFであるクラーク「メイルシュトレームⅡ」も収録し、ニューウェーヴ賛美一辺倒ではないのも魅力。また、時間SFながら時間SFを否定するプラクタ「何時からおいでで」はここでしか出会えないであろう大傑作。あまりの面白さに、プラクタの著作を全て読んだほど*1。本書刊行時、プラクタの生没年は不詳となっているが、近年プラクタの姪と名乗る人物がネットの掲示板上で情報を明かしていた(のだが、現在ではみつけられない)。

 

2020.1.20 中村融山岸真編『20世紀SF4』河出文庫

ニューウェーヴの退潮、フェミニズムSFの勃興、LDGの躍進、サイバーパンクの胎動と、まさに成熟の時代となった1970年代。それぞれプリースト「限りなき夏」、ラス「変革のとき」、マーティン「七たび戒めん、人を殺すことなかれと」、ティプトリー接続された女」とビショップ「情けを分かつ者たちの館」が該当する。「接続」「デス」のオールタイムベスト短篇が明らかに別格だが、ル゠グィン「アカシア種子」は馬鹿で大変に良かった。ビショップ「情け」は「美女ありき」から「冬のマーケット」へと繋ぐ本質的なサイバーパンク作品。ニューウェーヴサイバーパンクに繋がっているということを改めて確認。

コメント

あまりにも難解に成り果ててしまったニューウェーヴは自ずから緩やかに退潮したが、その文学的挑戦は技巧的洗練をSFにもたらした。その結晶がティプトリーであり、70年代におけるティプトリーの最高傑作が「接続された女」であった。

70年代のSFは、前後の時代と比べると一貫性がない。無論その前後の時代というのがニューウェーヴサイバーパンクであり、これらがSFで1、2を争う巨大な潮流であるというのが大きいかもしれないが、やはりこの分化にはその後のSFの多様化を見てしまう。

ティプトリー接続された女」はしばしば先駆的なサイバーパンクだとして言及されるが、ビショップ「情けを分かつ者たちの家」は入手困難なためか、言及されることが極めて少ない。この『20世紀SF』が辿る「冬のマーケット」への道中でこの作品に巡り会えるのは幸運であると思う。近年ビショップ作品が複数翻訳刊行され、再評価の兆しがある今、SFの文脈の中でその位置付けを再確認しておきたい。

作品として一番楽しかったのはル゠グィン「アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』からの抜粋」。これはル゠グィンらしからぬ馬鹿SF。やはりSFは馬鹿話をしてなんぼというところがあり、普段は冷静で知的な人が全力でする馬鹿話が一番面白い。現在ではちくま文庫『コンパス・ローズ』に収録されているのだが、2013年の刊行ということもあり、版元品切となってしまっている。

 

2020.2.5 中村融山岸真編『20世紀SF5』河出文庫

ついにやってきたサイバーパンクの時代。「冬のマーケット」が別格。このアンソロジーは「冬のマーケット」へと繋げるのが目的なのではと言う感じさえする。ラッカー「宇宙の恍惚」とドライアー「ほうれん草の最期」も面白かった。特に、後者はこの本じゃないと出会わなかったかもしれない。

コメント

ニューウェーヴの内省、ティプトリーの格好良さ、そしてSFが綿連と描き続けてきた科学技術と人間との関係、1980年代にこれらがサイバーパンクへと結実することとなる。

『ミラーシェード』のスターリングの序文によれば、サイバーパンクニューウェーヴから、特にバラードの思想に強く影響を受けているという。サイバーパンクはそれ自体が非常な煌めきをもち、スターリングのアジテーションを含む虚飾と伝説によって彩られているために、その思想的源流が語られることは少ない(きちんと語られてはいるが、読者側にあまり深刻に受け止められていないと言うべきか)。内省としてのニューウェーヴの最高傑作であるバラード「砂の檻」を読んだであろう『20世紀SF』の読者なら、ニューウェーヴからサイバーパンクへとほとんど直接推移していることがわかるだろう。

ニューウェーヴ(およびオールドウェーヴ)とサイバーパンクで決定的に異なるのは、作中における科学技術の扱いだろう。サイバーパンクでは、複数の技術が既に極限的に発達しており、科学技術のもたらす変容した社会が人間の内面の変容を不可避にもたらす。旧来のSF、特にキャンベル流の外挿としてのSFは何かが変化した社会を描く思考実験として創作されたが、ここで変化させられる対象(技術や人々の生活様式)は高々1つや2つに限られていた*2。また、外部の変容によって内部が変容を強いられるという構造は、明らかにバラード流のニューウェーヴ*3の影響を色濃く受けている。前巻に収録されたティプトリー接続された女」が本質的にサイバーパンクであるのは、思想やガジェットだけでなく、サイバーパンクサイバーパンクたらしめる、技術の扱いにある。「接続された女」では、作中社会をそのまま説明なしに描くことでその社会が大きく変容していることを示し、社会の変容が心の変容をもたらすことを忠実に描いている。

ラッカー「宇宙の恍惚」はラッカーらしい下ネタSF。元々下ネタを扱わなかったSFが扱うようになったのはエリスンをはじめとするアメリカのニューウェーヴの影響であり、この点でもサイバーパンクニューウェーヴから影響を受けていることを確認出来る。

ドライアー「ほうれん草の最期」は、ほうれん草が嫌いな子供が主人公の世界初のハッカーSF。話は逸れるが、自分自身子供の頃はほうれん草が嫌いだったのだが、いつしかほうれん草のおひたしなんかはむしろ好物になっており、我ながら驚いた経験がある。昔のほうれん草の茎の根本は今よりもっとピンク色だったように思うし、そもそももっと苦かった記憶がある。ほうれん草を好きになったのは、加齢による味覚の変化だけでなく、ほうれん草自体が改良され美味しくなったことにも原因があるかもしれない。

 

2020.3.17 中村融山岸真編『20世紀SF6』河出文庫

40年代から90年代まで追ってくると、明らかにティプトリー以後の作家の語り口が洗練されていることが分かる。特に顕著なのはベア、イーガンあたり。この本で話題には上がるが今残っていない作家も多く、なかなか悲しいものがある。そして〜年代という10年間のSFの総括という行為が可能だったのも、この時代までのことだったのかもしれない。2000年代以降はもはや追い切れるような数ではなく、時代という言葉で区切ることに意味もない。「しあわせの理由」をここで切るのはずるいだろ。

コメント

ニューウェーヴでSFに導入された文芸的技巧は、ティプトリーに運用されることで格好良さとして現出し、それがサイバーパンクのハードボイルドと読みづらさに繋がり、そしてベアを経てイーガンに至る。現代SFの難解さ、そして難解さと表裏一体の格好良さは、連綿と続くSFが長い時間をかけて醸成してきたものであることが『20世紀SF』によって示されている。

イーガンは科学的な難解さばかり論じられて、イーガンをイーガンたらしめる小説の上手さについてはほとんど論じられないのが悲しい。難解とされるイーガンの科学的描写はそこまで難解ではないことも多く*4、わからないのはそもそも小説を読めていないことに起因するという場合がそこそこ存在する。そのあたり、きちんと体系的に案内する入門書的なものが必要かもしれない(なので、準備を進めていたりする)。

この90年代SF傑作選は90年代SFをリブートの時代として編集しているが、これには刊行が01年と極めて年代が近いことが強く影響していると考えられる。20年以上時を隔てた今、90年代SF傑作選を編むとしたら、90年代はどのような時代として捉えられるだろうか。

そして、21世紀の混濁する世界を背景としたSFはどのようにまとめられるだろうか。『20世紀SF』は「冬のマーケット」に至るまでのSFの潮流を描いた。自分がするとしたら、やはり同じように特定の短編を1つ選び、そこに至るまでの潮流を描き出すことになるだろう。その1つの傑作を選ぶ、もしくは探し当てることが、自分のSFにおける最大の楽しみかもしれない。

*1:全てとはいえ、現存する作品は未訳作品を含めても20作に満たず、さらに残念ながら面白い作品はあまりなかった。

*2:例えばアシモフ「夜来たる」、ブラウン「電獣ヴァヴェリ」、ロバーツ『パヴァーヌ』。加えて言えば、こんな未来予知としてのSFが真に価値のある創造的なSFとして考えられていたのは50年以上前のことであり、この点でも、SFを社会の指針として用いようとする直近の風潮には賛同出来ない。

*3:バラード「内宇宙への道はどれか?」より引用(伊藤典夫訳)

「もし誰も書かなければ、わたしが書くつもりでいるのだが、最初の真のSF小説とは、健忘症の男が浜辺に寝ころび、錆びた自転車の車輪をながめながら、自分とそれとの関係のなかにある絶対的な本質をつかもうとする、そんな話になるはずだ。」

*4:例外として明らかに読者を混乱させるレベルで難解なのが「ボーダー・ガード」。