SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

伴名練「白萩家食卓眺望」について

SFM2020年4月号掲載のこの伴名練の新作について、読み終えてからずっとSFを読むという行為への自戒をし続けている。SFMを取り出して読んでは、ぐるぐると同じことばかりを考えている。

ぱっと読んだ感じ、SFアンソロジーっぽい作品だな、と思った。なんとなく、作品全体から、ソムリエ感が漂っているといえばいいだろうか。アンソロジスト感があった。これについては、理玲ちゃんが結構詳しく述べているので、ここでは省く。

 

さて、この作品を“SFアンソロジーが主題の作品だ”という認識のもと読み進めていくと、最終的に行き着くのは“この作品を楽しめる特別な才能を持つ自分”への自惚れになる。これは気持ち悪いSFファンの見せる、最悪の醜態だ。

私はこう読んだ、こう読めるんだよ、面白いね、という行為は、一歩間違うと、こう読まなきゃいけない、こう読めないのはおかしい、という悪しき方へと向かっていく。その先にあるのは、お前はこの程度も読み取れないのか、お前の読みは間違っている、という言葉だ。自分自身、これまでたったひとりからだけだが、これらの言葉を直に食らってしばらく立ち直れなくなったことがあった。

“特別な才能”、“特権的才能”。物語の最初と最後で示される、この物語のキーワードと言っていい言葉だろう(少なくとも、私はそう考えた)。作中の料理を最大限*1楽しむのには特別な才能が要る。現実の小説も、残念ながら、そうだ。

そしていま、自分は書評家として“読む”そして“伝える”という技量を買われて、商業で仕事をはじめるに至った。小説を読んで面白さを伝える書評という行為は、面白く読める自分の手腕をひけらかす行為と表裏一体の関係にある。

この先の将来、自分が道を踏み外すことのないように*2、自分の文章を、読みを、ずっと検討して作品を読み直してはぐるぐると自戒し続けている。

余談1

危なかった、それがいまの私の、「白萩家食卓眺望」に対する感想だ。

あと少しでも我が出ていたら、間違いなく「この作品を真に楽しめるのはSFファンだけ!」とか言い出してた。ほんとに危なかった。ありがとう伴名練。作品をもって止めてくれて本当にありがとうございました。

でも、こういうひりつくような緊張感をもって読むのもまた楽しい経験だった。内容自体も、あれだけ短いなかでものすごく楽しませてもらった。テクストの扱い方が、抜群に上手い作家だということを、改めて実感した。いいものを見せていただきました。単純な面白さと自戒を合わせて、これから何度も読み返す*3作品になるだろうな、と思った。

もしかしたら、伴名練は、SFを読む感覚を、SFに慣れていない人に自分の作品やアンソロジーを通じて植えつけていくよ、という意思表示をしたのかもな、とも思った。

それなら、こちらは書評や評論でSFを読む感覚を直接的に伝えていこう、と思った。駆け出しレビュアーだけれど、まだ見ぬ未来のSFや未来のSFファンのためならなんでも協力したい。

余談2

ふたつほど、自惚れに足を取られそうになっていた感想を見かけたので書き記しておく。

ひとつは卜部理玲の解説・感想ツイート。理玲ちゃんは、ここらへんの自惚れの危うさに途中で気づいたようで、危うい足取りではあるものの、“特別な才能”の矛先をふわりと伴名練本人に向けることで避けている様子。

もうひとつ怪しいと思ったのは、大野万紀氏の感想ツイート。「SF読者には書かれた文章から見たことのない別の世界が幻視されるのだ。」というのは境界線上にある言動のように感じられたが、THATTA ONLINEで自己満足への戒めの言葉があったことを確認。

結果、ふたりとも最終的にはきちんと回避していたので、安心した。

*1:ここで、“最大限”の代わりに最初は“真に”という言葉を使ったのだが、少し考えて書き直した。真に、という言葉をここで使ってしまう自分が、非常に恐ろしい。

*2:50年前に発表された作品の同時代の書評をわざわざ掘り当てて読んで、評者の無理解や無駄に飾り立てたり自慢じみたりした物言いにキレる、という行為をしてきた。己の書評には、50年未来の生意気な若造にキレられたり呆れられたりしないような、冷静で的確で簡潔なものになることを要請したい。

*3:無論、私の書評がこのSFMに掲載されているので、この号自体を何度も読むことになるのは確定している。SFMに自分の文章が掲載されたのが嬉しいので何度でも明記する。