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国立国会図書館蔵の人民文学出版社版小松左京『日本沈没』について

国立国会図書館が所蔵する中国語版の小松左京日本沈没』(人民文学出版社, 1975)について,その来歴を調査した.

概要

国立国会図書館が所蔵する人民文学出版社(北京)が1975年に刊行した『日本沈没』は,上海新華書店旧蔵書コレクションの1冊である.コレクションの特徴,および資料本体の記述内容などから,当該資料は,中国共産党が,当時日本で人気となっていた『日本沈没』を批判的に分析するため翻訳・紹介したものであると考えられる.また,当時の出版状況から,『三体』の著者,劉慈欣が読んだ『日本沈没』は当該資料と同じ版のものであると推察される.

導入

国立国会図書館は,小松左京の長編SF小説日本沈没』の,1975年に北京の人民文学出版社から刊行された中国語版(以下,当該資料という.)を所蔵している.NDLサーチでの検索結果およびCiNii Researchでの検索結果によれば,日本国内に同資料を所蔵している施設は他にないようである.

劉慈欣のインタビューから,劉慈欣は1970年代後半に『日本沈没』を読んだらしいことがわかる.一方で,劉慈欣が読んだ中国語版『日本沈没』については,詳しく言及されることはなかった.

[7]によれば,中国で初めて翻訳された小松左京作品は1975年に人民文学出版社から刊行された『日本沈没』である.したがって,当該資料はこの版と同一である可能性があり,また劉慈欣が読んだ版とも同一である可能性がある.

このように,当該資料の来歴は大変興味深いものである.よって,本稿では,当該資料の来歴を公開情報に基づいて調査を行なった.

周辺調査

国立国会図書館請求記号から資料の来歴を探る

国立国会図書館の蔵書には,国立国会図書館請求記号(以下,請求記号という.)という一意の番号が振られている.請求記号を確認することで,その資料がどのような経緯で蔵書となったかがわかる場合がある.

当該資料の請求記号は“XP-A-28878”である.この請求記号は国立国会図書館分類表(National Diet Library Classification, NDLC)に基づいている.実際に確認してみると,XPで始まる請求記号をもつ資料は“上海新華書店旧蔵書”という特殊コレクションであることがわかる.

上海新華書店旧蔵書

上海新華書店とは,中国共産党が1937年に延安に設置した書店である新華書店の上海における分店である.新華書店は,その設置直後は編集・出版・印刷・発行を一貫して行う巨大メディアであったが,後に出版は人民出版社*1に,印刷は新華印刷廠に分割され,発行のみ行うようになった[3].新華書店は国営であるため,都市だけでなく,農村部にも販売網をもっていた*2[4].上海新華書店は華東*3における出版流通の中核的な役割を果たしており,華東で出版された書籍の見本が上海新華書店に納品されていた[3][4].

上海新華書店旧蔵書とは,この上海新華書店が1950年代から90年代初頭にかけて集めていた見本約17万冊から成るコレクションであり,これにはその同時代に華東で刊行された書籍のほぼ全数の見本が含まれていると考えられている[3].上海新華書店は1994年に自身が所蔵する見本を全て売り払い,これを国立国会図書館が丸ごと購入したことで同館の蔵書となった[5].

したがって,当該資料は,北京で発行されたのち流通のため上海新華書店に見本として納められ,最終的に国立国会図書館によって購入されたものであることがわかる.

中国における出版実態調査

中国国家図書館の統合検索システムを用いると,中国国内で刊行された書籍を網羅的に検索することが出来る.検索結果によれば,『日本沈没』の中国語訳本で出版年が一番古いものは1975年に人民文学出版社から刊行された[1]であり,次点が1986年に吉林人民出版社から刊行された[8]であることがわかる.このことから,劉慈欣が読んだのは[1]であると推定される*4

実物調査

当該資料の実物を確認する.当該資料は京都府精華町の関西館の蔵書であり,特殊コレクションに属する資料ではあるが,出納すれば通常の資料と同様に実際に手に取って確認することが出来る.東京本館への移送や,公立図書館への貸出も可能である.

当該資料の外見的特徴

当該資料の表紙には題名と著者名があるほか,右上に”供内部参考”とある.裏表紙には”内部发行”(内部発行)とある.これらの特徴から,本書は内部図書と呼ばれる資料であることがわかる.

内部図書

内部図書とは,「中国共産党の公式イデオロギーとは異なる政治思想が含まれる海外の研究書籍、文学作品等を翻訳し、その流通範囲を中国国内の一定範囲内に制限した図書」[6]である.内部図書には機密扱いの資料からある程度流通範囲を絞っただけのものまで実情はさまざまである.

当該資料は,その外見的特徴から,最も機密レベルの低い部類の資料であることがわかる.

当該資料の内容

本書は,出版説明,書評2本,本文から成る.

書評は無記名の「伟大的日本人民永远沉没不可! : 评反动小说『日本沉没』」(「偉大な日本人は永遠に不沈です:反動小説『日本沈没』を評する」*5),村上幸一「世界末日思想和军国主义 : 评小松左京的『日本沉没』」*6である.前者は出版説明と本文の間に,後者は末尾に付録として収録されている.

出版説明とは,内部図書に付される前文で,翻訳者が読者に対してその資料の読み方を指南する「正確な政治的ガイド」[10]である.つまり,出版説明には,当時の中国共産党の政治的姿勢が強く表されている.

当該資料の出版説明

以下,当該資料の出版説明の和訳を示す*7

日本沈没』は日本のブルジョワ作家小松左京が1973年に発表した小説である.作者は科学幻想(SF)的な手法を用いて,大地震が発生し徐々に沈みゆく日本列島の様子と,その前後に国内で発生するパニック,そしてそれに対する諸外国の反応をフィクションとして描いた.

作者は,急激なインフレーション,気候変動,頻発する地震などに由来する社会不安を背景に,日本の“沈没”を喧伝することで,日本資本主義の政治・経済的危機とますます深刻化する階級矛盾から人々の目を逸らし,日本の対外伸長と移民を鼓吹し,経済発展から軍拡へと至る道を辿らせんと目論む.また,本書は,わが国を誹謗中傷するため,わが国の外交政策を意図的に歪曲している.この小説は,実際には,少数の軍国主義者が対外侵略のための反動的世論を形成するために出版したものである.

本書は2部構成からなり,第1部は40万字余りで.第2部は未出版である.批判に供するため,ここに第1部のみの抄訳を出版する.(下村訳)

これはかなりひどい言われようだが,それ以上に高々娯楽小説であるはず*8SF小説に対して徹底的な政治的批判を行なっている事実が極めて興味深い.

詳細は後述するが,文革期の中国で翻訳刊行された日本文学は全部で23冊しかなく,そのほとんどが日中の政治関係に直結するものである.それらに並んで『日本沈没』が国を挙げて翻訳紹介されたという事実は,当時の中国共産党が『日本沈没』に多大な関心を抱いていたことを示唆する.

出版の背景

実物の確認の補強として,当時の中国の出版事情を確認する.

日本沈没』と同時代のベストセラーとして有名なものとして,1972年に刊行された田中角栄日本列島改造論』が挙げられる.こちらは同年直ちに中国語訳(商務印書館(北京))が刊行されているほか.『私の履歴書』(1966年刊,1972年訳,同),『大臣日記』(1972年刊,1973年訳,同)が次々に翻訳刊行されている.田中角栄は1972年から74年にかけて総理大臣を務めており,隣国の首脳の著書を速やかに翻訳刊行するのは極めて自然なことである.

先述の田中角栄の著書3冊も含め,文革期の中国において,日本文学は全部で23作が翻訳刊行されている.この23作の一覧は以下の通り*9[10].

  1. 西野辰吉, 『霜の朝の路上で』, 作家出版社, 1966
  2. 小林多喜二, 『沼尻村』*10, 人民文学出版社, 1973
  3. 小林多喜二, 『在外地主』, 人民文学出版社, 1973
  4. 小林多喜二, 『蟹工船』, 人民文学出版社, 1973
  5. 三島由紀夫, 『憂国』, 人民文学出版社, 1971
  6. 三島由紀夫, 『春の雪』, 人民文学出版社, 1973
  7. 三島由紀夫, 『奔馬』, 人民文学出版社, 1973
  8. 三島由紀夫, 『暁の寺』, 人民文学出版社, 1972
  9. 三島由紀夫, 『天人五衰』, 人民文学出版社, 1971 
  10. 田中角栄, 『私の履歴書』, 商務印書館, 1972
  11. 田中角栄, 『大臣日記』, 商務印書館, 1973
  12. 戸川猪佐武, 『田中角栄伝』, 上海人民出版社, 1972
  13. 馬弓良彦, 『人間田中角栄』, 上海人民出版社, 1972
  14. 『故乡 : 日本的五个电影剧本』*11, 上海人民出版社, 1974
  15. 『日本电影剧本《沙器》《望乡》』*12, 人民文学出版社, 1976
  16. 松本清張, 『日本改造法案 : 北一輝の死』, 人民文学出版社, 1975
  17. 有吉佐和子, 『恍惚の人』, 人民文学出版社, 1975
  18. 小松左京, 『日本沈没』, 人民文学出版社, 1975
  19. 五味川純平, 『虚構の大義 : 関東軍私記』, 人民文学出版社, 1976
  20. 戸川猪佐武, 『党人山脈』, 上海人民出版社, 1976
  21. 堺屋太一, 『油断』, 人民文学出版社, 1976
  22. 空海, 『文鏡秘府論』, 人民文学出版社, 1975
  23. 吉田精一, 『現代日本文学史』, 上海人民出版社, 1976

1973年に刊行された『日本沈没』が,ベストセラーになったとはいえ,所詮娯楽小説と見做されていただろう書籍が2年後に中国で翻訳刊行されるのはかなり異質である.当時は文革の影響で出版点数が大幅に落ち込んでいた時期であり[9],限られた資源・労力をたかがSF小説に注いだという事実は,中国共産党が日本という国に接近するための手がかりを探っていたことを示唆する.

結論

国立国会図書館蔵の人民文学出版社版『日本沈没』について調査し,当該資料が当時実際に中国で翻訳刊行された書籍の見本であることがわかった.当時の出版状況などを総合的に考慮すると,劉慈欣が当時読んだ『日本沈没』は当該資料と同一の版であると考えられる.

また,当該資料の記述内容からは,文革期にあって中国が米国や日本へ接近する糸口を探ろうとしていた様子が読み取れる.これらの資料の内容・背景が与える示唆は非常に豊かであり,また国内の他の施設に同書の所蔵がないことから,当該資料は日本・中国両国のSF史のみならず,文化史・政治史研究においても貴重な史料であると考えられる.

補論:上海新華書店旧蔵書の再評価

先述の通り,上海新華書店旧蔵書は国立国会図書館が買い求めた資料群である.

これに先立って,外部有識者として招かれた,東京大学教授(当時)で中国近代史を専門とする並木頼寿は,同資料群について以下のような評価を下している[5].

  • めずらしいものがたくさん含まれているとは言えないが,大規模かつ網羅的である
  • 解放前後から1990年代初めまでの中国書の主要な部分を網羅しているという印象をもった
  • 現代中国の出版文化の概要を伝えるコレクションともいいうる

これはやや消極的な評価であり,実際,2020年における評*13でも「珍しいものではなく,むしろどこにでもある平凡なものである」とされている*14[3].

今回の調査では,同コレクションに含まれる当該資料が,日本および中国のSF史に関して重要な資料であることを確認した.今回の調査結果は,同コレクションに関する従来評価に対して一部反論するものである.

参考文献

1. 小松左京, 『日本沈没』, 人民文学出版社, 1975

2. 上海新華書店旧蔵書, リサーチナビ, 2024-11-11(最終更新), https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/shinka

3. 中村元哉, 関西館アジア情報室が所蔵する上海新華書店旧蔵書について, アジア情報室通報, 18(3), 2-6, 2020, https://dl.ndl.go.jp/pid/11547458

4. 鴇田潤, 当館の蔵書から : 上海新華書店旧蔵書, 国立国会図書館月報, (504), 28, 2003, https://dl.ndl.go.jp/pid/1078688

5. 丹治美玲, 国立国会図書館所蔵中国語資料と上海新華書店旧蔵書コレクション, 2021, https://ndlsearch.ndl.go.jp/file/rnavi/asia/toyo2021/202104NDLxinhua.pdf

6. 周俊, 「上海新華書店旧蔵書」に含まれる内部図書について, アジア情報室通報, 22(3), 2-8, 2024, https://dl.ndl.go.jp/pid/13751662

7. 『跨海建桥 : 新时代中日科幻研究』, 吉林出版, 2021

8. 小松左京, 『日本沈没』, 吉林文学出版社, 1986

9. 国立国会図書館関西館アジア情報課アジア第二係, 書誌データから見る上海新華書店旧蔵書コレクション : データセットを利用した分析事例 : 前編, アジア情報室通報, 18(3), 7-9, 2020, https://dl.ndl.go.jp/pid/11547458

10. 謝帆, 文化大革命期における三島由紀夫文学の受容 : 『豊饒の海』4部作の分析を中心に, Comparatio, 24, 14-33, 2020, https://doi.org/10.15017/4480677

11. 謝帆, 中国の文化大革命期における日本文芸の翻訳, 2022, https://hdl.handle.net/2324/6787689

12. 尹芷汐, 『社会派ミステリー・ブーム』, 花鳥社, 2023

13. 国立国会図書館関西館資料展示班, 『果しなき想像の果てに : SFの想像力が創造した未来 : 展示資料解説』, 国立国会図書館関西館, 2025, https://www.ndl.go.jp/jp/event/exhibitions/kaisetsu_202502.pdf

*1:中国国営の出版社.前出の人民文学出版社とは異なる.

*2:文革期(66-76)の農村部の生活がひどく貧しいものであったことは『三体』にある通り.劉慈欣は内陸部の山西省陽泉市の出身(生まれは北京)で,クソ田舎ではないものの都会ともいえない地方都市で育った.

*3:上海市江蘇省浙江省安徽省三国志の呉のあたり.

*4:中国は現在に至るまで海賊版が横行しているので,劉慈欣が当時読んだのは[1]であると断定することは難しい.

*5:長嶋茂雄の名言「読売巨人軍は永久に不滅です」が元ネタか.これは長嶋茂雄引退試合(1974年)での言であり,時期ももっともらしい.

*6:長周新聞1973年8月8日に掲載された記事の翻訳らしいが,原文未確認.

*7:原文は以下の通り.

『日本沉没』是日本资产阶级作家小松左京写的一部小说,1973年出版.作者采取科学幻想的手法,虚构日本列岛发生大地震后逐渐下沉,以及沉没前后国内的惶恐和国际的反应.

作者利用了日本社会上对日本经济恶性膨张,气候异变和地震频发的不安心理,宣扬日本临“沉没”,转移人们对日本资本主义的政治,经济危机和日益尖锐的阶级矛盾的注意力,乘机鼓吹日本向外发展和移民,走经济扩张到军事扩张的道路.书中还有意歪曲我国的外交政策.恶毒诽谤我国.这部小说的出版,实际是为一小撮军国主义势力向外侵略制造反动舆论.

本书共两部,第一部四十余万字,第二部尚未出版.现将第一部节译出版,供批判用.

*8:SFは娯楽のための読みものに過ぎないと主張したいのではなく,当時の日中両国において,SFは子供向けの低俗な読みものであるという認識が一般的であったということを意味する.

*9:簡単のため,日本語のタイトルが明確に存在する作品については日本語表記を採用した.

*10:翻訳時に『沼尾村』と誤記されている.

*11:映画の脚本5本組.山田洋次『故郷』,有馬頼義『あゝ声なき友』,山田洋次男はつらいよ』,三浦哲郎忍ぶ川』,金志軒/斎藤耕一『約束』

*12:映画の脚本2本組.橋本忍/山田洋次砂の器』,広沢栄/熊井啓『望郷』

*13:東京大学大学院准教授(当時)で中国近現代史を専門とする中村元哉による.

*14:直後に,ここまでの規模でまとまって所蔵しており,かつ容易に閲覧可能な機関は他にないとのフォローもある.