新海誠監督の新作『天気の子』を公開初日に鑑賞し、面白くなかったと感じたし非常に疑問点が多かったのでこの文章を書くことで整理したい。
前作『君の名は。』は、物語の構造とその論理性、そして“なぜその物語を物語らなければならないのか”という問題に対してその物語の中で回答を示した自己言及性において、自分の理想とする完璧な作品であった。
前作の成功が完全に論理的に導かれた必然的なものであり、かつこの物語の完成度を超えることは論理的に不可能であると理解していたので、今回の『天気の子』でどのような物語を展開するのか非常に気になっていた。
結論、本作は『君の名は。』の逆の物語構造を忠実に行った作品である。両作でなにが対立しているのかということを、整理しながらひとつひとつ見ていきたい。
『君の名は。』と『天気の子』との比較
比較することの是非
この『天気の子』を『君の名は。』と比較することの是非について考察する。
『天気の子』には、『君の名は。』の主人公である瀧くんと三葉ちゃんが登場するほか、主要登場人物であったテッシー(勅使河原克彦)やサヤちん(名取早耶香)、四葉も登場している。
これら前作の登場人物を出している以上、比較することが適当でないという議論は不適当であると考える。
また、両作はボーイミーツガールを主軸とする物語であり、同一監督の同じ文脈の作品として比較されるべきであると考える。
正しい物語としての『君の名は。』
まず、先行作『君の名は。』の物語構造について整理する。
BDボックスの特典ディスク収録の新海誠本人の講演によると、『君の名は。』のメインストーリーは次のように整理される。
- 男の子と女の子が出会う物語(ボーイミーツガール)
- 災害を防ぐ物語
まず、1番のボーイミーツガール*1というストーリーは作劇においてもっとも古典的なものであり、物語の王道であると言える。例としては、本作がSF的な作品であることを考慮し、『時をかける少女』を挙げるだけに留める。
次に、2番の災害を防ぐ物語も、古典的なものであり、物語の王道であり、そして物語に込められるもっとも根源的な願いに通じるものである。物語は、古来は口伝によって伝えられてきた。物語の役割、そして物語に込められた願いとは、起こった事実を記録し、その物語を見聞きした者に成功例を伝え、また失敗を避けるための方策を伝えることである(叙事詩などがこれにあたる)。事実、2011年の東日本大震災で津波の被害に遭った地域には、“この場所に家を建ててはならない”という言い伝えがあったにもかかわらず住宅地化を進めた結果、甚大な被害を受けた地域が存在した*2。さらに、地域の災害を予知した巫女が自らの力を使って危機から人々を助けるという古典的な物語(伝承)によく見られる物語構造は、『君の名は。』でも採用されている。
この2つのメインストーリーに共通するのは、どちらも非常に古典的で王道そのものなストーリーであるということである。その古典性と王道性を盤石なものにするために、本作では『とりかへばや物語』(平安期)や『転校生』(昭和57年)で採用された男女の入れ替わりをメインガジェットとしながら、その入れ替わりをジェンダー意識の変化した現代で行うということを目標として制作されている。すなわち、古典的なストーリーをこれまた古典的な作品から取り入れた古典的な要素で補強しているということである。さらに、古典的な要素である神社や神楽、組紐などを物語に登場させることによって、そして古典性や伝統性と対極にある東京の情景とスマホなどの情報機器を物語に登場させることによって、物語全体で古典性を観客に強く意識させる作品になっている。
また、『君の名は。』にはさらに隠されたメインストーリーがある。それは物語を通じて成長する物語というものである。
もっとも原始的な物語として、「いないいないばあ」が挙げられる。親と赤子との「いないいないばあ」において、赤子は親がいなくなったと思い、不安になる。しかし親が再出現することによって、赤子は安心する。少し進むと、「いないいないばあ」は「肝試し」で例えられる。子供は、「肝試し」を通じて、怖さを克服して、少し成長する。新海誠は、物語を通じて人は成長出来る、ということが物語のもつ根源的な作用であるとした。
『君の名は。』では、入れ替わりを通じて(物語上の真の目的である)糸守の人たちを災害から守るために成長していく2人が繰り返し描かれていく。そうして成長した2人は確かに糸守の人々を災害から守り、(神様からのご褒美として惹きあわされることで)物語は大団円を迎える。
改めて整理すると、『君の名は。』のメインストーリーは以下のようになる。
- ボーイミーツガール
- 災害を防ぐ物語
- 物語を通じて成長する物語
これらは物語の王道中の王道であり、物語の古典的な作用を完全に理解した上で構築されたものであり、物語を通じて観客に未来に対する正の感情を与えるものである。これらの王道性、物語の原理に忠実な作用、物語を通じた成長を含む『君の名は。』の物語を、「正しい物語」と定義する*3。
誤った物語としての『天気の子』
つづいて、『天気の子』の物語構造について整理する。
本編映像やパンフレット、文庫版あとがき、インタビューなどから、本作のメインストーリーは次のように整理される。
- ボーイミーツガール
- 災害を肯定する物語
- 物語を通じて退行する物語
まず1番について、これには議論の余地がない。よって省略する。
2番について、これは作中の「天気なんか狂ったままでいいんだ」「世界は元から狂ってた」という帆高のセリフと、パンフレットの「(やりたかったのは)狂った世界を選び取る物語」という新海誠本人のコメントが根拠である。これに関しては映画公式パンフレットを参照されたい。
3番について、これは本編終盤で帆高が(大人からしたら)幼稚で愚かな「自分のエゴのためにセカイを犠牲にして陽菜さんを助ける」という選択をしたこと、その帆高の選択を保護者兼観客の代弁者であったはずの須賀が支援したこと、そしてその結果として“江戸以前の海に還った東京”というモティーフが根拠である。特に“江戸以前の海に還った東京”というモティーフは、前半で執拗に描かれた東京の街並みとの対比が強烈であり、瀧くんの祖母(立花冨美)のセリフとともにいかにも重要そうに提示されたことにも注目したい。
以上3つのメインストーリーは、前節で定義した「正しい物語」に反するものであり、「誤った物語」と見なせる。
新海誠の意図:反『君の名は。』としての『天気の子』
前章で整理した通り、『天気の子』は『君の名は。』の正反対にあたる作品であると見なせる。
公式パンフレットにおいて「『君の名は。』を踏まえて別の場所に行く作品を描きたい」「見ようによっては最悪の開き直りとなるラストを観た観客の反応が知りたい」「セオリーから外れた作品を夏の家族向けの映画として作りたかった」という旨のコメントをしていたり、小説版あとがきにおいて「完璧な『君の名は。』でもディスられるんなら、眉を顰められるような物語を描きたい」という旨の記述をしていたりと、意図してセオリー通りの王道かつ完璧な作品だった『君の名は。』から離れていくように制作したことがうかがえる。
結局のところ、『天気の子』は娯楽作品としては面白くない。しかしながら、新海誠がやりたかったのが完璧で面白い作品を作ることではなく、完璧な反『君の名は。』を作ることだったならば、非常に論理的で明確な対立構造になっている点からして大成功していると思う。
完璧な『君の名は。』に向けられた無数の賞賛のなかのわずかな批判・非難に興味が向いた新海誠は、破綻した『天気の子』を観客に投げつけてその反応を見たいと考えているのではないだろうか。前回と同じく無数の賞賛とわずかな批判・非難なのだろうか、それとも批判・非難のなかの賞賛なのだろうか。正直大金のかかった夏の大衆向け娯楽映画で行うような実験ではないような気がするが、現状大衆を上手くだまくらかして金をふんだくることには成功しているようなので大衆映画としても成功しているのだろう。贅沢な実験だ。
面白くはなかったが、『天気の子』においてもしっかりと論理的な思索と目的意識を感じ取ることが出来たので、私は今後も新海誠の新作を見ようと思っている。才能がなくなったのではなく、あえてこういう作品を論理的にぶつけて来たのだ。大衆の反応を理解した新海誠は将来必ず面白い作品を作ってくれると思うのだが、面白くないものは面白くなかったと明記しておく。
新海誠の課題
『天気の子』における数々の破綻
本作は、SFとしてもファンタジーとしても、また単純に物語としても理論建てや動機付けが怪しい部分が多数存在する。以下に主なものを挙げる。
- 帆高が島に戻らない理由が弱い
- 帆高が船で被った水の塊の正体が分からない
- 中学生が見つけた水の塊の正体が分からない
- 魚っぽい水の正体が分からない
- セカイ系風味の作品にしても一貫性が弱い
とりあえず、1番に関しては公式パンフレットにて新海誠本人が「トラウマで駆動する物語を描きたくなかった」という旨の発言をしているので意図的なものなのだろうと思う。
2、3番に関して、これはおそらく龍神なのだろうと思う。こんなものが存在する世界なので4番もそういう生き物なのだろう。これに関してはなにも言えない。
5番、結局セカイ系っぽい文脈を大量に使っておきながらもセカイ系っぽくないというのが率直な感想だ。ゼロ年代っぽい作品だったら、主人公の選択でセカイが取り返しのつかないくらいに変化してしまうだが、『天気の子』はもともと狂ってたセカイに戻ることを選択しただけの作品だった。ものすごくゼロ年代っぽいけど、どうにも違うというのがおさまりが悪い。
ファンタジー~ライトSFをやりたいんだったら、『君の名は。』のように物語論から伝統芸能まで理論武装をガチガチにやった方がいいと思う。SF的になにも見えていないし、同様にファンタジーに特化するにはナイーヴすぎる。
志向と適性の乖離
新海誠の描きたいものは、過去作の傾向から恐らくファンタジー~ライトSFあたりなのだろうと推察されるが、残念ながら適性は『言の葉の庭』や『君の名は。』に見えるガチガチの純文学的表現であると考えている。
『言の葉の庭』に見られるような内向的な描写を得意としているにもかかわらず、世界を描写しようとしてやっぱり力が足らずセカイを描写するにとどまってしまう。『天気の子』についても外枠があるのに満ち足りていないせいで知らず知らずセカイ系っぽくなってしまった、というのが妥当なところだろう。
新海誠には、小松左京が必要だ。少なくとも、同じものが見える同レベルの力をもった天才が隣に必要だ。新海誠は小松左京になりかかっている。文学を通じて人間の限界を知り、バカ売れしてしまったことによって人間に絶望するに至った小松左京になりかかっている。文章力さえあれば小松左京に連なる小説家になっていたのではないかと思うが、愚かな人間に絶望しながら死んでしまった小松左京の辿った道を進む者が現状いない以上、新海誠と釣り合う才能はいない。
残された論点
『言の葉の庭』と『天気の子』との比較
雨をテーマとしている以上、『言の葉の庭』との比較も検討されるのが当然であろう。
とりあえず気づいた範囲では、劇中に2回挿入された「陽菜さんが手を太陽にかざすシーン」において、『言の葉の庭』で実験的に導入されていた「輪郭線を反射色で描く」という手法が用いられていたことを認めた。
また、『天気の子』で気になったのは、雨が特に登場人物の心理描写を象徴するような場面が存在しなかったことだ。少なくとも、私は気付けなかった。『言の葉の庭』ではあれだけ執拗にやっていたことが、『君の名は。』でも出来ていたことが、『天気の子』では出来ていなかったように思う。流石にこれは意図してやっていないのだと思う。
『天気の子』における音楽の貢献
前作『君の名は。』では場面場面に挿入された音楽が非常に大きな役割を担っていた。本編がセリフのない日常のポートレイト的映像になった場面においては挿入歌の歌詞が物語を代弁していたし、OP主題歌ではクライマックスがハッピーエンドであることを示唆する歌詞が歌われていた。それにもかかわらず、本作では挿入歌の役割を認めることが出来なかった。視聴不足かも知れないので見直してみようかと思うのだが、正直本編をあまり面白いと感じられなかったので非常に億劫。
新海誠の意図の妥当性
「帆高が島に戻らない理由が弱い」「セカイ系風味の作品にしても一貫性が弱い」「経済的な面で物語が縮小している」など『天気の子』に対して疑問が山積していたが、原作小説やパンフレット、インタビュー記事を読むことでこれらの一見不可解な点がすべて新海誠の意図を反映したものであったと理解した。しかし、あまりにも的確に理解出来過ぎてミスリードなのではないかと疑っている。
『天気の子』における省略の技法の不使用
『君の名は。』ではあんなに上手く使っていた省略の技法を、『天気の子』では全く使っていなかったように思う。(『君の名は。』における省略の技法については、過去記事:「映画『君の名は。』の過小評価について」参照)あれほど上手く使える人が使わなかったというのは非常に気にかかる。意図して使っていないとすれば、やはりそれもまた反『君の名は。』なのだろうか。
結論
- 『君の名は。』と『天気の子』を比較し、両作における新海誠の意図の考察を通じて、『天気の子』が反『君の名は。』に忠実な作品であることを示した。
- 『天気の子』が面白いかと言われたら、面白くなかった。
- しかしながら作品自体は論理的な問いと目的の下に制作されていると感じたので、次回作も必ず見に行こうと思っている。
どうでもいいんですが、三葉ちゃん、場合によっては実家は隕石で消滅するわ東京のアパートは水没するわですごくかわいそう。瀧くんとどうかお幸せに......。
*1:ボーイミーツガール要素に関しては、OP最後で瀧と三葉とが赤い糸でつながれていることから最終的に結ばれる結論であることが事前に示されている。この点に気付いていれば、『秒速5センチメートル』の再来におびえる必要はなかったのだ。
*2:『君の名は。』作中でも、災害の記憶を物語として留めようとしたものの、時代が下るにつれて意味を喪失した物語の例が複数存在する。例として、糸守名産の組紐、宮水神社の神楽が挙げられる。
*3:2011年の5年後に、王道かつ古典的な物語里を通じて物語本来の作用をもって現代人にメッセージを発信した、という物語が『シン・ゴジラ』と同年に発表されたということを記憶しておきたい。2016年は奇跡の年だった。