SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

映画『君の名は。』の過小評価について

2016年夏に公開され、まさに社会現象とも言える一大ムーヴメントを巻き起こし、日本国内で250億円以上、国外で3.5億ドル以上の興行収入を得た映画『君の名は。』。興行成績が示す通り、国内外で高い評価を受けており、2018年の正月に地上波で初放送された際も、ネット中がお祭り騒ぎになるほどの人気ぶりであった。

この作品の成功は、『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』などで既に一定の評価を得ていた新海誠監督の評価をさらに高めた。

私はこの作品が一定の評価を受けていることを十分に理解しているつもりであるし、確かに『君の名は。』に多少の難点があることは認めている。そのうえで、私は『君の名は。』が未だに過小評価されていると感じている。

この作品は、現在の評価よりもさらに高く評価されるべき作品なのである。

 

 

過小評価の原因

なぜ『君の名は。』が過小評価されているのか。その原因は、この作品が視覚作品であるにも関わらず、「語りすぎ」ていることにある。

視覚に訴えることが出来るメディアである漫画や実写映画、アニメーションでは、視覚作用で伝えられることはなるべくすべて視覚作用に落とし込まなければならない。これが視覚作品のいわば「文法」であり、守るべき作法なのである。これを上手く作品内で行い、過不足なく完成された作品を、鑑賞者は高く評価するというわけである

しかし、『君の名は。』の作品内では、登場人物がなんでもかんでも口で説明してしまうのだ。代表的なシーンが、物語序盤、夕方に三葉とてっしー、サヤちんが三人で田んぼの中の田舎道を歩いて帰るシーン。このシーンで、三人は糸守町がいかに田舎かを表すために、「本屋もないし、歯医者もない~」と無いものを列挙している。吉幾三じゃないんだから、「なにもない田舎」ということを映像で端的に示したいならば、夕暮れの田んぼの中の田舎道を三人が歩いている姿を遠くから見る光景を設定して、間接的に「なにもないんだな」と鑑賞者に伝えればいいのである。

この「語りすぎ」ているという点が、普段から視覚作品に慣れ親しんでいる映画好きやアニメ好きといった、いわゆるマニア・オタク層から批判されたり、高評価を得られなかったりした原因となったのである。

「語りすぎ」問題は故意か否か

アニメーションでキャラクターに無駄に語らせるという行為は、その場面を間延びさせるだけでなく、その場面における背景画や人物画の価値を減じるという点でも悪手である。一方で、普段アニメーションやその他の視覚作品に親しんでいない、いわば視覚作品の文法に不慣れな一般大衆に対して「わかりやすい」作品になるという利点も存在する。

ここで、アニメーションの原理を考えてみると、アニメーションでキャラクターに「語らせる」ということは、制作者がわざわざセリフを考え、キャラクターの口の動きを作画し、声優にしゃべらせて録音する、ということをしたということになる。すると、その「語りすぎ」問題は、製作者の明確な意図の下で行われたものだと解釈できる。

さらに、この作品は東宝の夏休みの大衆向けエンタメ作品として企画されており、普段視覚作品に触れていない層向けに企画された作品であるということを考慮する必要がある。その不慣れな層をメインターゲットに据えて興行収入を見込むとするならば、作品全体を通した完成度を上げるよりも、作品の「わかりやすさ」を重視して物語自体の面白さを理解してもらおうとするのはエンタメ作品の製作者として当然のことではないだろうか。

したがって、『君の名は。』の制作者は、意図して「語りすぎている」状態を作り出していると考えられる。

君の名は。』作中における「語りすぎ」の例外

私は前節までで、作中における「語りすぎ」が製作者の明確な意図によるものだと論じた。これに対して、「製作者がへたくそなのが、たまたまそう解釈出来ただけだろう」と反論したい人がいると思う。しかし、これから述べることによれば、やはり『君の名は。』では明確に「語りすぎ」を演出していたのだということが分かるだろう。

その「語りすぎ」の例外となるシーンが、以下に引用する、変電所を爆破するためにやってきたてっしーと三葉(本人)の会話のシーンである。

三葉「自転車壊しちゃって、ごめんやって」

勅使河原「はあ? 誰が?」

三葉「私が!」

 てっしーの自転車を壊してしまったのは、カタワレ時前に山に登っていた時の三葉(瀧)であり、カタワレ時に入れ替わった三葉本人はてっしーの自転車を壊してしまったことは知らないはずである。しかし、実際にはこの会話シーンのように、三葉(瀧)の行動を三葉本人がちゃんと知っているということになっている。また、カタワレ時のシーンでは、三葉と瀧は互いに現在の状況を具体的に交換する描写が見られない。ここから考えられるのは、カタワレ時の間、時間を超えて二人が入れ替わっている間に、画面の外で二人はちゃんと互いの情報をやり取りしていたということである。このことに関しては、小説版の同シーンで地の文に三葉の心の中の言葉として「私は瀧くんからの言葉を(てっしーに)伝える」(カッコ内は筆者追加)とあるので妥当であると考えられる。

すると、製作者はへたくそなのではなく、やはり意図して「語りすぎ」な状態を演出していたのだと考えられる。言外に情報を落とし込む「文法」を使えないわけじゃない、あえて使っていないんだ、と製作者は暗に主張しているのである。

さらに評価するべきは、上述のシーンの巧妙さである。このシーン、真剣に考察をする者に対しては「語りすぎ」という批判をかわすための予防線的シーンになっている。一方、視覚作品の文法に疎い層に対しては、他人事のような口ぶりの、ちょっと不思議なやり取りで笑えるギャグシーンになっているのである。このひとつのシーンに二重の意味をもたせているという点でも、やはり製作者は意図して「語りすぎ」状態を演出して「わかりやすさ」を求めているといえる。

このシーンを設定することによって、視覚作品の文法に不慣れな層をメインターゲットに据えて制作された『君の名は。』は、その文法になれた層をも取り込む魅力を手に入れたのである。

したがって、前述の「語りすぎ」問題は、批判に当たらなくなる。製作者はあえてそう設定しているのだ。「語りすぎ」という旨の批判によって『君の名は。』は過小評価されている。この批判が通用しない以上、『君の名は。』はより高い評価を受けるべきである。

 要旨

  •  『君の名は。』は一定の評価を受けているが、未だに過小評価されている
  • その原因は、一般層への「わかりやすさ」を強調するために、作品内でキャラクターが「語りすぎ」ていることにある
  • しかし、その例外となる場面を作中に上手く設定しており、「語りすぎ」状態は製作者が意図的に設定したものであると考えられる
  • よって、『君の名は。』は一般的な層に受け入れられるような「わかりやすい」作品となっているうえ、マニア層の反応も考慮した作品作りがなされている
  • したがって、『君の名は。』はあらゆる層の鑑賞に耐え得る良質な作品となっており、現在の評価は過小評価である