SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

SF的手法を用いて描き出される「生」━━『わたしを離さないで』(カズオ・イシグロ/土屋政雄、ハヤカワepi文庫)

書誌情報

作者:カズオ・イシグロ

訳者:土屋政雄

出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)

形態:長篇小説

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

感想・考察

今年のノーベル文学賞カズオ・イシグロが受賞したということで、いい機会なのでよくSFとして言及されるこの作品を読んでみた。SF専業ではない作家が書いたSFということで、一般的なSFとは少し毛色の異なる、情緒的な物語だった。

SF的な世界観のもと、懐かしきヘールシャムでの友人たちや先生たちとの思い出が、語り手キャシーの口によって情景豊かに語られる。ヘールシャムという閉じた環境の中で、独特の用語などを交えながら、当時の人間関係までもがつぶさに語られる。我々が経験してきたような、友達との気まずい空気や大人たちのどこかよそよそしい態度までもがありありと語られる。これらの情感豊かなキャシーの語りこそが、エミリ先生が示したかった「提供者の人間性」のゆるぎない証拠である。エミリ先生たちがヘールシャムで行っていたことは、間違いなく提供者に豊かな感情を与えることに成功していたのである。一般に、SF専業作家の作品には、小説として感情表現に乏しかったり、人物の描写が少なかったりすることが多く、それらによる感情の希薄さを指摘されることが多かった。普段別の分野で活躍している一線級の作家がSFに流入してきて、感情をちゃんと表現しようという新しい風潮が出来るという点では、大いに価値があると思う。

しかし、ここで終わっていたらこの作品自体にはさほど価値はない。重要なのは、キャシーの語りが情感にあふれつつも、どこか抑制のきいたものとなっていて、私たちと少し異質なものを感じてしまうところだ。この物語は、始めに言ったように、情緒的な物語ではあるのだが、ここに欠けているものがある。この欠陥こそが、豊かな情感を異質に感じさせているものだと思う。

それは愛だ。

この小説には愛が欠けている。生徒たちが保護官から個人的に面倒を見てもらう機会はなく、ヘールシャムは愛に欠けた施設にならざるを得ない。提供の猶予の条件として伝えられていた条件であり、提供者が追い求めなければならないもの、すなわち提供者にないものとして描かれたものは愛だった。

一方で、私の印象に強く残ったシーンがある。キャシーが『わたしを離さないで』のテープをバックに歌い、枕を抱きながら踊るシーンだ。ここには作品中で唯一、明示されない愛がある。私の子供を、私から離さないで……と。

一旦は情緒性を否定したが、結局この物語は非常に情緒的だ。この作品を読む上で、「感情」はひとつの重要な位置を占めると思う。

 

ここで視点を変えて、教育心理学的な観点からこの作品における教育によって育てられた提供者たちの感情について考えたい。

エリクソンの漸成説によると、人生は8つの段階に分けることが出来、それぞれの段階において社会から与えられる課題をどのように解決するか、もしくはその課題による心理社会的危機をどのように乗り切るかによって、その人のパーソナリティ(知的側面・情緒的側面を統合した「性格」)が決定される。各段階で課題が達成されることによって、次の段階へと発展していく。逆に言えば、現段階で課題を達成することが出来なければ、その人のパーソナリティはその段階に留まるということである。

また、あらゆる人間関係において、最初に成り立つ人間関係とは、親と子との間に生まれる親子関係である。親は子に対して無償の愛を与え、子は親を自分を庇護してくれる唯一の人物として同一視する。こうして生まれる「そのひとといると安心した感じがする」という感情をもつことを、愛着という。この愛着をもつためには、他人との接触が必要である。それは温もりや肌触りなど、「その他人がしたこと」ではなく、「その他人がいること」による刺激によることが多い。このようにして得た愛着を基に、子供は社会的学習に参加することとなる。

ヘールシャムでは、保護官が提供者である生徒たちに対して同情しないように、個人的な接触を一切断っている。これによって、ヘールシャムにおいて、保護官と生徒の間には、本来生じるべき適切な「親子関係」が生じていないのではないだろうか。この親子関係がなければ、生徒たちの社会的な学習は遅れてしまうし、最初の土台となる人間関係がなければ、生徒たちはたった一人で社会と向き合わなくてはならなくなる。逃げ場のない社会において、年端のいかない子供たちはまともな解決策を出せないだろう。解決できなければ、その生徒は同じ発達段階に留まることになる。恐らく、一般的な生活を送っている同年代の子供よりは、心理的発達は遅れるか、不十分なものになるだろう。

同じくエリクソンの漸成説では、思春期から青年期にかけての、自我同一性(アイデンティティ)の確立を重要視する。この自我同一性とは、現実的に予想される将来に向けて、「自分とはこういう者だ」という一定の自信をもつことに至ることであると言える。心理的発達が難しいヘールシャムにおいてやっとのことで得た(もしくはまだ得てすらいない)アイデンティティが、キャシーたちの場合はルーシー先生によって根底から破壊されてしまった。この時、キャシーたちはエリクソンのライフサイクルにおける全ての段階を一気に飛び越えて、最後の発達段階に当たる、人生への絶望からなる成熟期に到達する。この心理的発達の歪みが、キャシーたち生徒の情感の異質さをもたらしているのではないだろうか。キャシーたち以外のヘールシャムの生徒や提供者にしても、自分が「普通」の人生を送れないと知った時点で、アイデンティティは一瞬にして崩壊するだろう。したがって、提供者たちの情感の異質さは、心理的発達の歪みによるものではないかと考えられる。

 

教育心理学を援用してまでキャシーたち提供者の感情を疑ったのには理由がある。それは、なぜキャシーたち提供者が自身の過酷で空虚な運命から逃げ出そうとしないのか、という疑問があったからである。

普通の人なら、自分がこのまま施設にいれば真っ当な人生を得られないと気付いてからすぐにでも、何らかの抵抗や逃避行動をとるだろう。それなのに、提供者たちは目立った抵抗も逃避も見せなかった。これが非常に不思議に思われるのだ。

キャシーの語り口も不思議である。終わりの見えている人生を歩む中で、無意味な生を、また既に死んだ友人たちとの思い出を、なぜここまで楽しそうに語れるのか。やはり提供者たちクローンには、何か普通の人とは違うところがあるのではないだろうか。完全に同じであるとは言い切れない、もどかしさと疑わしさが残ってしまう。

ここまで心情を丁寧に書いておきながら、その感情を否定するような作りになっているために、感情の面で多重構造を成している。現段階ではまだ全てを完全に断定できるわけではない。何度も何度も読み返すうちに、また気付かなかったことに気付き、受け入れることが出来るようになるのだろう。

 

この小説の作者、カズオ・イシグロによれば、この作品のテーマは「生」を描くことだったという。ここまでしか生きられないという短い期限付きの「生」を生き抜く姿。しかし、これは私たち普通の人間も期限付きの「生」を生きていることに違いはない。たとえその期限が長かろうと、その途中で事故や病気などでふとした瞬間に死んでしまうこともある。その死の瞬間が、50年先なのか、今日なのかは誰にも分からない。そう考えると、この物語は、提供者の物語なのではなく、自分たち普通の人間の物語なのかもしれない。

読み終わった後に、何かが変わって見えるような感覚。これがSFで言うところの「センス・オブ・ワンダー」であり、優れたSFのもつ不思議な感覚である。同じ「生」を描いたSFとして、星新一の『処刑』『殉教』『生活維持省』や長谷敏司の『あなたのための物語』がある。これらの作品と是非読み比べて欲しい。

参考資料

[1] 心理学 第4版 鹿取廣人、杉本敏夫、鳥居修晃 東京大学出版会