SF游歩道

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伴名練「延命小説」の解説その他の文章

この文章は『文學界』2020年12月号掲載の伴名練のエッセイ「延命小説」の解説と、私の個人的な感想の入り混じった文章になる。

まず解説から行っていく。

結論として、私はこの作品を伴名練の最高傑作であると考えている。なぜなら、この作品が完璧なSFであり、私が『なめらかな世界と、その敵』までの作品をすべて読んだ上で弱点だと考えていたふたつの事柄に対して、明らかにみずからの弱点を理解した上でその回答を示してくれたからである。

まず、この作品が完璧であるということについて考える。

単純に読み通してみて面白いことには疑う余地がない。読み通してまず気付くのは、この作品が何人称なのかが不明瞭であるということだ。明らかに、伴名練はなにかを仕込んでいる。もうひとつ疑問なのは、この作品は明らかに小説めいた文章であるのに、「エセー」であるとして掲載されていることだ。

「エセー」である理由とは、この作品がフィクションではなく、伴名練の実体験に基づくものであるからというものだ。事実、伴名練の作品のすべてが、過去のSF作品の古びた部分を削り、現代風に組み立て直すという形で執筆されている。これは「延命小説」において改稿者が行っていることにほかならない。

また、本作の元ネタと言うべきSFとは、星新一の作品群、特に「ひとつの装置」「殉教」である。ここで本文でも引用された星新一の作品の特徴を再度引用する。

自作が長く読み継がれるよう、古びそうな描写を具体から抽象に変えていった

星新一の作品の特徴を確認したところで、本作を読み直してみると、何人称なのかが分からないことに加え、古びそうな具体的な言葉が本文中に一切使われていないことに気づく。ここから導かれる結論は、「延命小説」自体が延命された“小説”であるということだ。おそらく「延命小説」という“小説”は、もともと長篇であったのだが、延命を経てこんなに短くなってしまったのだろう。

それでもって、最後の展開が完全に「ひとつの装置」と「殉教」をなぞったものであるというのが、素晴らしい。伴名練は、星新一の特徴から話をはじめて、星新一の特徴を完全に理解して使いこなし、星新一の得意としたあのラストシーンの情景へと繋げた。そのうえで、この作品は「延命小説」という物語がなぜ存在するのかという問題への回答となっており、物語が創られる過程をその物語がみずから描くという円城塔的な自己言及性をもっている。この自己言及性があるがゆえに、本作の物語は、読み終わってなお収束することなく、読み手自身を巻き込んでいくことになる。

以上が、この小説が完璧であるということの理由だ。

次に、伴名練の弱点(だったもの)と、それらへの回答について考える。

端的に、伴名練の弱点とは、作品群のほとんどすべてがなにかしらの先行作品のパッチワークであり、真に新しいSF的なヴィジョンをもたらしてくれるような作品ではなかったということと、現代性を追求するあまり、時代の流れの中ですぐに古びてしまうのではないかという懸念があったことである。

しかし、伴名練は、私が弱点だと考えていたこれらの事柄について、明確な回答を作品の中で、あるいは作品自体で示してくれた。

パッチワークに過ぎないということについては、星新一の特徴と円城塔の発想をもって、伴名練自身が行ってきた、または行っている行為を高らかに示してくれたことで、私は、星新一でも円城塔でもない、伴名練という新たなヴィジョンを見ることが出来た。確かに「延命小説」もパッチワークではあるけれど、それはその素材そのもののヴィジョンではなく、それらを自分のものに出来るという明確な回答だった。

普遍性の欠如ということについては、「長く残る物語こそ価値がある、などというつもりは無い」「作家の多くは、同時代の読者に届くように物語を書いていると思う」と言いつつ、時代性を一切排除した「延命小説」という文章を書くということで、自分は普遍性も時代性もすべて理解しているということを暗に示した。

どちらの点についても、伴名練は自らの弱点であると認識した上で、これだけ明確な回答を示してくれた。私はいま、伴名練を一切信用しきっている。私の抱いていたわずかながらの心配を見事に払拭してくれたからだ。

伴名練がこれまでにやってきたこと、これからやること、そのすべてが明示された「延命小説」は、まぎれもなく伴名練の最高傑作である。

 

感想に移る。

やられた。これは私が書きたかった文章だ。私が書かなければならなかった文章だ。私はこの作品を構成する要素について、確実に伴名練よりも深く知っていたのに、私はそれらの要素をSFにすることが出来なかった。

というのも、私は過去にこのブログにおいて、星新一の「殉教」を題材に、星新一の特徴の中でも、特に時間的・場所的局所性が排除されているという特徴に関する研究結果を公表しているからだ。

shiyuu-sf.hatenablog.com

そう、私は、よりによって、「延命小説」の元ネタと思しき「殉教」を題材とした研究を、「延命小説」より1年も先行して公表していたのだ。

まだ公表していない星新一に関する研究成果もある。大幅に変更されているのは「殉教」と異色作「セキストラ」だけで、「ボッコちゃん」も「処刑」も「生活維持省」も「月の光」も「おーい でてこーい」も、「殉教」ほど大規模で抜本的な改稿をされていないのだ。このことを含め、星新一作品の改稿について、また星新一作品の普遍性について、世界で一番詳しいと実績をもって自負していた私ではなく、伴名練がこの「延命小説」を書いたのが信じられなかった。

星新一の特徴」「円城塔の自己言及性」というカードを手にしていたにも関わらず、私は「延命小説」を書くには至れなかった。あとはこの物語を思いつくだけでよかったのに。思いつけなかったということが、私の限界を示している。完全なる敗北だと感じた。なまじ知っているがゆえに、読めてしまうがゆえに、伴名練と自分との格の違いを、まさしく次元が異なるほどの隔たりをしかと感じた。

しかしながら、これまでにない清々しさも感じている。ここまで完膚なきまでに、完璧な物語というものを見せつけられると、もはや清々しい。私はいま、『アマデウス』のサリエリの立場にあるが、才能の差というものが隔絶しすぎていて素直でいい子なサリエリになっている。

本当にありがとうございました。私が死蔵していたあのカードたちでここまで完璧な、私の理想の物語が作れるのだということを知ることが出来て、私はいま、ものすごくSFが楽しい。

徹底的に読み込んで、改善すべき点をすべて洗い出し指摘しようとして本気で取り組むことになった最初の新作が「延命小説」だったということがいかに幸福なことか。私にとってはあまりにもクリティカル過ぎたけれど、読んでいてものすごく楽しかった。SFというものの精髄をみることが出来て本当によかった。

伴名練の新作を読むのは楽しいのだけれど、恐ろしいことでもある。読み違えたり、読み切れなかったりすることは自分の無能を示すことにほかならず、とても恐ろしい。

それでも、伴名練のSFは、SFを読むことの至上の楽しさを私に与えてくれる。私は戦々恐々としつつ、次作を待とうと思う。