SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

ブログ開設1周年の反省、今後の目標、その他よしなしごと

気がつけばこのブログを開設して1年が経っていた。

もともと継続的に更新するつもりだったとはいえ、1年の間にひとつひとつの記事が質・量ともに加速度的に重さを増していき、記事ひとつで1万字を超えることが珍しくなくなってしまった。

まあ、自分が楽しめていればまず目標達成なのでそれはよいとして、今後も継続していけるように、色々と書き残したいと思う。

この1年間で出来たこと

記事を(29+1)個作成し、公開した

まずプロフィールから始まり、ディックからカズオ・イシグロ筒井康隆、草野原々、円城塔、そして中華SFと、迷走の果に未知の領域へと足を踏み入れることになった。下書き段階で止まってしまっている記事もあるので、休みの間に手を付けて後悔したいところ。

星新一作品の研究を行い、発表した

運よく星新一の初期作品の初出誌を手に入れたことから、最初期の名作「殉教」の初出版と文庫版との比較検討を行い、星新一の文学的姿勢について考察を行った。理学部で学んだ科学的(理学的?)思考法を用いて文学研究を行うことで、理学的手法がどこまで文学研究に応用出来るのか、またその原理的な限界がどこにあるのかを知ることが出来、非常に勉強になった。

「殉教」以外にも、「おーい でてこーい」や「月の光」などの初出誌を手に入れることが出来たので、これらの作品についても同様の研究を行う予定。

中華SFに関する研究を行い、発表した

前掲の星新一作品の研究に比べると見劣りするが、中国においてどのような作品が売られているのかを、中国のSF雑誌『科幻世界』の通販欄に掲載されている作品を調べることで確認した。

今年は中国語の勉強を重ね、中華圏のSFそのものに対する研究を行いたい。

中華SFの翻訳を行った

同人翻訳として、潘海天「偃師伝説」を中国語から、テッド・チャン「The Great Silence」を英語から翻訳した。前者は東北大SF・推理研機関誌『九龍』第2号に発表し、後者はSF研の部会で使用した。

古い世代のSFファンがそうだったように、読みたいSFが国内にないから海外に手を伸ばした、ということではなかった。中華SFに興味をもったのは、テッド・チャンの作品に魅了されたことと、ケン・リュウという新たな才能の台頭を同時代に経験したこと、そしてケン・リュウ編訳の中華SFアンソロジー『折りたたみ北京』収録の劉慈欣「円」に圧倒されたことがきっかけだった。

それらに加え、長年に渡る学校教育の成果によりなんとか英語を読めるようになっていたこと、そして運よく後輩に中国人留学生が居て中華圏の情報へのアクセスが容易になったことが重なり、興味を行動に移せるようになっていたのが幸運だった。

まだまだ不慣れだが、「SFは面白い」ということを、中華SFの普及を通じても行っていけたらと考えている。

円城塔作品に対する研究を行った

わがSF研のOBである円城塔の作品に対しても、拙いながら研究・考察を重ねた。

円城塔作品はすごく面白いのに、なぜか敬遠されて読まれないということを経験したので、面白さを解説しては周囲に聞かせ、ということをしていた。その結果のひとつが『文字渦』の総解説だ。

『文字渦』の総解説は、私としては日本で一番分かりやすい解説だと思っているのだが、あまり閲覧数が伸びておらず、寂しい。下に貼っておくので、とりあえず読んで頂きたい。切実な願いである。

shiyuu-sf.hatenablog.com

 

今後やっておきたいこと

物理学の復習・予習

ながながとSFのことについて書いてきたが、本来やらねばならぬ私の本業は物理学である。少し反省している。

東北大SF・推理研機関誌『九龍』の継続的刊行

物理をやるといったそばからこれである。とはいえ、せっかく始めたことなので、楽しく、責任もって続けていく所存。

 

 

春季休業中にやりたいこと

とりあえず直近、春季休業期間中にやっておきたいことを公表することで発破をかけたいと思う。

物理学

力学(Feynman, Landau-Lifshitz)

みんな大好きファインマンさん。院試もあるので今のうちにやり直しておきたい。周囲の有能さに嫌気がさしてはいるが。

ランダウ=リフシッツは目標。これを読みこなして真の物理学徒になってみたいものである。

電磁気(砂川)

初めて読んだ時は天下り式に与えられるマクスウェル方程式を上手く呑み込めず惨敗。今なら簡単に理解出来ないと駄目でしょう。(フラグ)

解析力学・相対論(二間瀬・綿村、風間)

物理学科に入ったからには、相対論くらいすらすらと語りたいというもの。理解したい。

量子力学(猪木・川合、Sakurai)

必修の量子力学Ⅱを落としました。卒業がかかっているので、こんなところで公表せずとも勉強しなければならない。

熱力学(三宅、清水)

熱力学は高校時代からあまり好きではなかった。やり直せば楽しいのかもしれない。

統計力学(田崎?)

必修の統計物理学Ⅰを落としました。こちらも卒業がかかっているので言う前に勉強をしていなければならない。

量子統計力学(石原)

必修の統計物理学Ⅱ演習を落としました。量子統計力学は結構楽しかった。なお演習。

宇宙論(松原)

もともとは宇宙論を研究する理論物理学者になりたかった。しかしながら、自分が世界中の天才に勝てるはずがない(勝てるような天才なら必修を落とさない)ので、理論の道はやめた。それでも理論ならば独学で道は辿れるので、ぜひ時間のある今のうちにやっておきたいところ。宇宙論を勉強して分からないところをさかのぼって勉強すれば効率がいいかもしれない。

ILC

いま一番やりたいことがこのILC。標準模型を超える未知の粒子を発見し、人類の知を一歩先へとすすめる。ぜひともその偉大な事業に貢献したい。原理やその周辺の物理学を学ばねばならない。

文学

物理も好きだけど文学も好きなのです。

十億年の宴

オールディスによるSF史。これを頭に入れて、SFというものへの理解を深めたい。

円城塔

もっともっと読みこなしたい。物理を知ったことで、ますます作品理解が進むということがあったし、ラテンアメリカ文学を知ることでも発想や論理の元ネタを探ることが出来、見通しが良くなった。もっともっと円城塔作品を楽しみたい。

ラテンアメリカ文学

円城塔からボルヘスに辿り着き、ラテンアメリカという未知の領域を知ってしまった。ボルヘスを読んでいくのはもちろん、今はコルタサルとガルシア=マルケスが特に気になっている。

哲学

これも好きです。ものを考えることが好きなんですかね。楽しいものには理屈がないので仕方がない。

西洋哲学史(Russel)

バートランド・ラッセルの著書。現在プラトンまでは辿り着いたので、なんとかスコラ哲学までは到達したいところ。にしても、ギリシャ哲学は面白い。

老子

たかだか1冊だけなのでなんとか読みたいところ。こんなところで「読む!」と宣言するより行動で示すべきなのだ。

荘子

1年の時に基礎ゼミで触れている。読み物としても面白かったので読み切りたいところ。

列子

「偃師伝説」の翻訳の時に参照した。読み切りたい。上巻が手に入らなかったけど。

語学

英語

原書をバリバリ読めるように勉強していきたい。ゆくゆくはバリバリ翻訳したい。物理で英語を使わなければならないので、避けられない道ならば楽しんだもの勝ちだろう。

中国語

翻訳をしたときは完全におんぶにだっこだったので、自分独りで読み進められるようにしなければならない、というか自分独りで好きな作品を探せるようになりたい。初めて入るものの、独習は中々ハードルが高い。宅浪で東北大に入った独学の力を活用したいところ。

部屋の整理

私が今住んでいる部屋には、6.5畳に1000冊以上の本が詰め込まれているため、大変乱雑になっている。ついでにノート類や資料類も散乱しておりQOLが著しく損なわれている(見方によっては大変良質なのだが)ので、なんとかして机をまともに使えるようにしたい。

 

よしなしごと

その1:私のSFの評価軸、または私は如何にして“純文学”に期待するのを止めてSFを愛するようになったか

私は以下のように考え、創作物に対する評価を行っている。

芸術作品とは、作者の伝えたいことを、最も効率的に鑑賞者に伝達するために制作された、あるひとまとまりのパッケージのことである。

芸術作品の良し悪しは、この伝達の効率性と、伝えたいことの内容(思想性)によって決められる。

前提として、芸術家は「なにかを伝えたい」ということが創作の原動力であるとおく。芸術家は、「なにか伝えたいこと」を芸術作品を通じてより効果的、効率的に伝えるここが出来るように創作を行うことが誠実であると考えられる。(芸術家は自分の伝えたいこと理解されると嬉しい⇔辛いのは理解されないこと)

そもそも、芸術作品を創作するとき、創作物はまったく自由に制作されるはずである。創作物が無から制作され有になるとき、創作物の要素はすべて作者の自由意志の下、なんらかの意図(伝えたいことを鑑賞者に伝えたい)に従って創作物に配置される。したがって、創作物になにを置くのも作者の自由であるならば、創作物に置かれたすべての要素は作者のなんらかの意図を反映するべきである。

これがよく行われ、作品を構成する要素(表現媒体、表現技法、対象物など)がすべて「なにかを伝える」というときに貢献している場合、「効率的に伝達されている」と評価出来る。

作者は、映画でもアニメでも小説でも漫画でも彫刻でも、表現媒体をなんでも自由に選ぶことが出来たはずである。仮に、作者が彫刻を制作したとして、その彫刻を通じて伝えたいことが小説によって伝えるべきもの(例:小説は本質的に理解不能である)であったなら、その彫刻は非効率的である。小説によって伝えた方が効率的かつ効果的(先の例で言えば、「小説は本質的に理解不能である」ということを伝える小説は真か偽か、という自己言及的問題が発生し、小説以外では出来ない問いかけとなるからである)であり、その彫刻は「それ小説でよくない?」という言葉で断殺される。

さて、SFでは、主人公を地球人にするのか宇宙人にするのか非人間的知性体にするのかと、およそ自由である。これは、一般に我々現実の人類とまったく同じ知的体系を有する人類を主人公に据えなければならない“純文学”よりも自由である。伝えたいことを伝えるために、作者はあらゆる手段を用いてその伝達の効率を最大化しなければならない。その点において、およそあらゆる語り手・舞台・時代を設定してもよいSFの方が、“純文学”よりも誠実である。

したがって、SFを評価する上では、「そのSF的設定は真に効率的か」「なぜ作者はそのような設定を導入しなければならなかったか」「それらの設定によってどのようなことが伝えられたか」を考えなければならない。一方で、“純文学”を評価する際には、「こんな設定より、もっとこういう設定にした方が効果的ではないか?」「この設定は所詮“現実”を描くためだけに導入されたのではないか、作者の意図によるものではないのではないか?」という疑念がつきまとう。

より自由で、より芸術的であると考えるものを辿っていった結果、私はSFに辿り着いた。すべてのSFが芸術的であると言うわけではない。しかしながら、より自由なのはSFではないかと考えつつ、SFに関わっている。

その2:最近SF研で闘わされている議論

最近、「もし小説を自動生成する機関が登場したら、小説家の存在意義、ひいては小説という芸術はどのように変容するだろうか」という議論が活発に行われている。

この議論の論点は、以下に整理される。

・自動生成機関の小説家に対する優越性とはなにか

・小説を創作するとはいかなる行為か

・小説の価値はいかにして決定されるのか

・小説の価値はどの段階で発生するのか

まず「自動生成機関の小説家に対する優越性とはなにか」について。この優越性を考えるにあたって、生成速度(執筆速度)と面白さの2軸によるマトリクスを用いて考察を行う。この時、優越性が明確になるのは速度・面白さともに機関か小説家が優れている(第一象限・第四象限)場合のみであり、そうでない場合は不明確である。この議論を深めるためには、小説を創作するという行為がいかなる行為であるかを考察する必要がある。

「小説を創作する」ということは、定量的には「0個以上の文字を配列する」と言い換えられる。ここで、小説は文字を用いて創作されるため、無限の文字列の中にはすべての小説(有限の文字列)が含まれることが数学的に示されることを考えれば、この無限の文字列というものは既に示されていると考えられる。なぜならば、小説に用いることが出来る文字がすべて既に示されているため、無限の文字列はこれらの文字を無限に配列すれば得られるからである。したがって、実は、自動生成機関が登場する以前から、文字というものがすべて出そろった時点で、それらを配列して“創作”される小説なるものはすべて既に示されていたということになる。したがって、すべての小説は、新しい文字の導入を行っていない場合、新規性はそもそも存在しない(=創造的でない)。

しかしながら、我々は未だに小説に価値を見出している。この「価値がいかにして決定されるのか」ということと、「価値がどの段階で発生するのか」ということを考察することで、「小説はどのように変容するか」ということへの答えに迫ることが出来るだろう。

(疲れて来たので一旦終了。私自身は私の言いたいことをよく理解しているのだが、文章だけで論理を積み重ねていくのは、目の前の人がどの程度理解しているかを把握しながら適宜省略したり補足したり出来る対話と違って難しい。)