SF游歩道

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流行に先んずること40年以上、悲劇(?)の中華SF――「猫城記」(老舎、サンリオSF文庫)

書籍情報

作者:老舎

訳者:稲葉昭二

出版社:サンリオ

形態:長篇小説

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書影:HP「サンリオSF文庫の部屋」さまより引用

解説・感想

サンリオSF文庫紹介の第二弾。老舎は中国の作家ということで、この「猫城記」は今流行の中華SFということになる。流石はサンリオ、中国SFの流行を見事に見抜いていたのだ。惜しむらくはその流行が40年近く先であったことと、肝心の「猫城記」の内容がダメダメだったことだろうか。

まずは作者について。老舎は1899年(一説には1898年とも)中国北京生まれの作家、劇作家。本名は舒慶春、字は舎予。北京師範学校を卒業したのち、ロンドン大学東方学院の教員を経て斉魯大学教授、山東大学教授を歴任し、そのかたわら創作を行った。盧溝橋事件をきっかけに、以後日中戦争の間は中華全国文芸界抗敵協会を主宰し、中国全土の文学者による組織的な抗日宣伝の成立に大きく貢献した。戦後はアメリカで講義を行いつつ創作を続けていた。中華人民共和国成立後、招きに応じて帰国し、政務院文教委員会委員、全国人民代表大会代表、中国文学芸術界聯合会副主席、中国作家協会副主席、北京市文学芸術界聯合会主席などの役職についた。しかし1966年、文化大革命の渦中で紅衛兵に暴行を受け、失意のうちに入水自殺したとされている。(中国当局による発表のため、正確なことは不明。一説には暗殺されたとも)1978年に名誉回復がなされ、現在では魯迅とともに中国の国民的作家とされている。

北京の街と人々を愛し、ユーモアと諷刺を得意とした作家で、中華人民共和国成立後は新社会をたたえる作品を多数発表した。代表作のひとつ「駱駝祥子」が岩波文庫に収録されており、現在でも新刊で入手することが出来る。1981年から82年にかけて学習研究社から全集が刊行されているものの入手は困難。

 

作品について。

この「猫城記」は、ドギツイ表紙、聞きなれぬ国、SFが本業ではない作家、そしてなによりもこの本がサンリオSF文庫であるという役満から察せられるとおり、ひどい内容である。そのひどさは、扉をめくって1頁目に「私の十冊ほどの長篇小説の中で、『猫城記マオチョンチ』はいちばん”パッとしない”ものである。」と老舎自身が断じている通り。諷刺小説は社会問題を照らし出して笑い、同時に解決策を見出していかなければならないのに、この「猫城記」では社会問題を小説世界に落とし込むだけ(しかも稚拙)で力尽きている感が強い。第二次大戦前に書かれた(1932~33)古典作品に該当するとはいえ、これは流石にひどい。(風刺小説の古典といえばジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記」(1726)が挙げられる。古いことは稚拙なことの言い訳にはならない)

サンリオSF文庫総解説』でも内容の面白さについては言及がなく、薄々察せられる。ほかにもググればアレな評判は山ほどあり、最早駄作であるとの評価は揺るがないだろう。まあ、私自身はそんなひどい評判を知っていながらわざわざ仙台から神保町まで行って結構な額を払って購入したのだが、「『猫城記』を買った」という話だけで自分どころか周りにも大いに楽しんでもらったうえ、実際に読んでひどさを体感して再度楽しんだのでよしとしたいところ。

 

内容にうつる。

主人公は中国人の宇宙探検者。同じく中国人の友人とともに2人で火星にやって来たものの、大気圏に突入する際の事故で乗っていた宇宙船が大破し、友人は死亡、主人公だけが火星に降り立つことになった。

友人を埋葬しようとしたところ、火星原住民である「猫人」の集団に捕まり、猫人の国「猫国」の大地主・将軍・詩人・政治家である大蠍タアシエに監視人として雇われることになった。猫国では迷葉という食糧兼麻薬の栽培が盛ん(というより迷葉しか栽培されていない)であり、大蠍タアシエのもつ迷葉の大農園を外敵から守るために雇われたのだった。なにしろ、猫国では外国人はただ存在するだけで大変恐ろしい存在なのだ。

猫人たちは、迷葉を食べることだけを考え、自分の利になることだけをし、他人の利になることは決してしない。政治や軍事は空洞化し、経済活動は存在せず、外国人たちのいいようにされている。それでも、猫人たちは目の前に迷葉があれば満足するのだった。

 

ということで、この作品が成立したのは1932年から1933年にかけてであり、1911年に清が崩壊した後の混迷極まる中華民国時代を背景としている。作中の迷葉は明らかに阿片がモチーフとなっており、外国人に対して頭が上がらない猫人も義和団事件以降の清の外交姿勢を著実に表している。(なお、老舎の父は義和団事件で戦死している)

当時の実際の中国の情景を諷刺しているのは大変良く分かるのだが、諷刺したいがあまり猫国の文化風土の設定が散漫になっており、作者にも制御しきれず滅茶苦茶になり過ぎてしまっている。(猫国には数千年単位の歴史があるらしいのだが、作中の描写からすると五年ももちそうにない程度の低さである。例:目を離すとすぐさま略奪をはたらく市民、外国への骨董品の輸出のみに頼る財政、交戦せず自国民からの略奪だけをする軍隊、etc)

いかに猫国がダメであるかを延々と語り、特に解決策を語りもせず、愚かな現状を笑うわけでもなく、猫国の惨状をまたひたすら語り倒すだけであり、読んでいてかなり苦痛だった。こういう諷刺なら、「愚かな市民」というキャラクターや、主人公の近くにいる説明役的なキャラクターに魅力があった方が読者がより身近な物語として作品を読んでいくことだろうと思うのだが、この「猫城記」における説明役である大蠍タアシエは徹頭徹尾この猫国の倫理観によって腐敗しており(それはそれで猫国のダメさ加減が強調されていいのかもしれないが)、その上物語自体に動きがないというか、盛り上がりに欠けた構成であるために1冊読み通した際のカタルシスがなくて余計に苦痛だった。流石は作者自身が失敗作としているだけのことはある。ネタとして以外ならば、こんなもの誰にも薦めない。

 

一方で、現代日本をそのままそっくり書いたかのような部分も存在する。138頁あたりの大学教育に関する部分と、158頁あたりの学者に関する部分がそれにあたる。

その日暮らし上等の猫国にも、立派に大学が存在する。大学において高等教育を受けた人が増えるのは国家にとって有益である。他方、大学教育は金と時間がかかり、しかも学生連中というものは政府に反抗しがちでやっかいなものである。これらを一挙に解決するために、聡明な皇帝陛下は「大学入学即卒業」という画期的な政策を考案して実行に移したのである。どうせ大学なんか入学して数年経てば必ず卒業出来るのだし、時間と金と労力をかけるだけ無駄なのである。かくして、猫国は最高学府を出た無数の学士を抱え、教育費用を大幅に削減して迷葉のさらなる増産に取り組めるようになったのである。猫国の未来は明るい。

大学に通う人が多ければ、学者も増える。年老いた学者はそれぞれの学問のうちどの学問が真の学問であるかの論争にいそしんでおり使い物にならないが、若い学者はみな外国での留学を経験しており、すばらしい人材である。若い学者は外国の最先端の学問を吸収し、外国語を多用して彼ら以外には理解出来ないような高度で詳細な議論を連日行っている。猫国の未来は明るい。

……そんなわけはない。前者は完全に取り返しのつかないレベルの失策であり、後者はニューアカデミズムやポストモダンなどの現代思想の辿った失敗そのものである。いま私が書いたことは現代日本にも裏返って通用する。入って4年間学費を納めれば卒業出来る有象無象の大学と称するなにか、カタカナ語をいじくりまわしただけでは飽き足らず理系用語を誤った理解の下で比喩的に利用し分野横断型の俊英であると嘯く連中、そしてそれらの学者もどき・評論家もどきに踊らされる愚かな学生……。歴史は繰り返す。(ちゃんと頭を使って考えて生きたいものです)

これらの部分だけが周囲の記述からかけ離れて優れているというのは考えがたい。むしろ、これらの部分も稚拙な戯画であるというべき代物だろう。すなわち、日本の現状がこれほど稚拙であると考えるべきだ。こういうことを読み出だす面白さというものはあるので、老舎の観察眼自体は優れたものだろう(この作品は明らかに物語の構成で失敗している)。

 

また、物語の最終盤で猫国は他国(背の低い猫人たちの国)の侵略を受け、ほとんど抗戦することなく滅亡してしまう。この背の低い猫人は、短い剣(=三十年式銃剣)を持っていること、それ以外の他国の猫人(=白人)より背が低いと描写されていることから、日本人をモチーフにしたものだと考えられる。すなわち、この物語は日本に侵略されかけている中国を改革するために書かれた小説であると考えることが出来る。日中戦争勃発のきっかけとなった満州事変は1931年、すなわち執筆の前年に起こっていること、そしてこの後に老舎の起こす行動を合わせて考えると妥当であろう。

このように、中国のSFでは日本が悪役であったり、なにかの悪い例として登場することが多い。(例:韓松「水棲人」)この背景には、両国の歴史的経緯や中国のSF作家によくみられる愛国心の現れといった要素も大きく関係するが、それよりも日中間の経済的・文化的格差が最も大きな要素だろう。

元来、文化というものは、経済的に優れた国から劣った国へ流れ込んでいくのが自然である。(例:遣隋使・遣唐使、明治の文明開化、戦後の西洋化;ジャポニスムはその例外だから有名なのである)日中間においては、明治以降経済的に日本が中国を上回る時期が長く、特にアニメ・漫画・ゲームなどのサブカルチャーに関してはまったく相手にしないほどであった。近年やっと中国経済が日本経済を上回った(人口や領土を考えれば至極当然である)ものの、サブカルチャーに関しては未だに日本が圧倒的に有利である構図が変わっていない。サブカルチャーメインカルチャーの狭間に位置するSF小説であっても同様で、中華圏のSF小説が日本で広く知られるようになったのはここ2年かそこらの話である。一方で日本のSF小説はそこそこ中国に紹介されており、アニメに至っては言わずもがな、「エヴァ」に「ハルヒ」に「君の名は。」と大人気である。

中国のSF作家の立場からすると、物語の舞台を中国に据えるならばやはりお隣の“文化大国”日本を意識するのはいたって自然なことだろう。しかも日本は経済的にも科学的にも政治的にも凋落気味、対する中国は天井知らずで上り詰めていく竜の如し。そりゃ悪役になるのは日本に決まっている。

ここで日本が悪役になることを不快に感じる人がいるかもしれないが(私も日本を悪役にされて決して嬉しいわけではない)、中国SFに日本が登場しなくなるのはそれはそれで困った事態だと思う。それはすなわち、中国がもはや日本を超えるべき大国と見なさなくなったということだからだ。

自分で書いていてなんともおさまりが悪いが、個人的には、中国SFに日本が出続けて欲しいと思っている。中華圏のSFの翻訳・紹介をしている身ではあるが、純粋な一SFファンとして面白いSFを読みたいという気持ちと、(なぜかSF辺境の地とされている*1)日本が中華圏にも英語圏にも負けないSF大国である、もしくはSF大国にしてやる、という気持ちとがせめぎ合って非常に複雑。まあ最終的には日本語で面白いSFをたくさん読めればそれで満足なのだが。

 

これまで散々この作品をひどいとけなしてきたが、そのひどさの一翼を担うのが訳文の読みづらさだ。自分が言うのもなんだが、訳文が日本語の小説になりきっていない感があった。

というのも、一応日本語にはなっているものの、原文の論理構造や文法的な語順がそのままになっている部分が散見され、日本語として読み辛い印象を受けた。率直に言えば、原文が透けて見える訳文だったということだ。

以前私が中国語から訳した潘海天の「偃師伝説」の下訳を起こした際にやたら見かけた日本語らしくない日本語を、この「猫城記」では何回も目にすることになった。私は訳文から遡って原文を推測して読むことが出来たので大して苦労しなかったが、中国語に親しみのない読者にはこれは厳しいものになるだろう。(ただし改訳したところで結局内容自体はダメダメなので評価は変わらない)

 

存分に語り終えたところで、最大の謎が残っていることに気付く。それは、この作品がなぜサンリオSF文庫に収録されたのか、ということだ。

この作品の内容自体はまったくSFではない。しいて言えば、物語の舞台が火星であり、猫国社会がディストピアじみているところがSFと言えなくもないのではないだろうか。

舞台が火星であると言っても、宇宙服もなにもなしで火星表面を歩けるような設定であるため、SF的な要請というよりはとりあえず舞台を地球外にもっていっただけ、という面が大きいだろう。

同じくディストピアものに近いとは言っても、諷刺を試みた(そして失敗した)結果、見るも無残なポンコツ国家が誕生してしまったという方が正確だろう。

結局のところ、この失敗作たる「猫城記」、しかも当時完全なる謎に包まれていた中国SF(と称するなにか)がサンリオSF文庫に収録されてしまったこと自体がSFだとするのが一番納得がいく。つくづく、面白いレーベルがあったものだと思う。このようなサンリオ以外では実現しないだろう事故的な現象がサンリオの一番の魅力である。

 

最後に、サンリオ名物裏表紙のやたら長い紹介文の末尾はこんな感じ。

(前略)幽黙ユーモア諷刺サタイアで世界認識が螺旋状に深化していく現代中国SFの熟成を味わってください。

流石にこの作品で世界認識は深化しないが、熟成はしているかもしれない。そもそも現代というには既に時間が経ちすぎているように思われるが。この文章を書いた人もさぞ紹介には難儀しただろうと思いつつ、誰かに貸して被害者を増やしてやろうと画策中。人気の中国SFの古典的作品だよ、と言って騙そう(決心)。われこそはという危篤()な方はぜひ申し出て下さい。

*1:ブライアン・W・オールディスによるSF通史『十億年の宴』(東京創元社)には「(前略)ほかの国々、とりわけ日本とフランスは、それぞれ繁栄するSF界を国内にかかえているが、まだSFの主流に影響をおよぼすにはいたっていない」とある。