SF游歩道

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文字についての謎を文字で明かす、円城塔の最高傑作――「文字渦」(円城塔、新潮社)

書籍情報

作者:円城塔

出版社:新潮社

形態:単行本

文字渦

文字渦

 

収録作品

『文字渦』

『緑字』

『闘字』

『梅枝』

『新字』

『微字』

『種字』

『誤字』

『天書』

『金字』

『幻字』

『かな』

 

感想・各作品解説

「新潮」連載時に『種字』を読んでからずっと単行本化を待っていた。率直に、間違いなく今年の新刊本の一番はこの作品で決まりだ。そう断言出来る。(しかしながらこの文章を書き上げるのに4ヶ月もかかってしまった)

円城塔特有の「どこまで本当なのか分からない大法螺成分」は各短篇の題材自体に吸い取られているので、文字に関する論理的な考察に集中して読むことが出来る一冊になっている。その点では円城塔を初めて読むという人でもあまり抵抗なく読むことが出来るのではないか。川端康成文学賞に推されたというのも納得できる大傑作だ。

前置きでだらだら書いていても仕方ないので、さっそく各短篇の話に移ろうと思う。今回は円城塔本人がツイッターで作品の内容の補足のようなことを発信していたので、適宜それを添付しながら書き上げた。

おそらく日本で一番詳しい解説になっているので、よくわからなかったという方でも安心して読んでいただけると思う。

以下、収録順に感想と解説を述べる。

『文字渦』

最初の作品が表題作『文字渦』。兵馬俑をモチーフに、円城塔の異常な「もののみかた」が垣間見える作品であり、題名からも分かる通り、中島敦の『文字禍』に題材を得たものだろう。

円城塔の作品を読む上で、ひとつ注意しなければならない重要な点がある。それは、「円城塔は、文章を読み書きする際に、情景描写を画像として思い浮かべるのではなく、文章そのものとして扱う」ということだ。具体的には、「山の向こうから日が昇る」という文章を読んだとき、一般的な読者は山越しに見える太陽の画像を思い浮かべるが、円城塔は「山の向こうから日が昇る」という文章しか見ていないのだ。この特徴が端的に表れた作品として、「シャッフル航法」(河出文庫)収録の『リスを実装する』や「後藤さんのこと」(ハヤカワ文庫JA)表題作の『後藤さんのこと』などが挙げられる。

この『文字渦』では、登場するたびに文字が変わる「嬴」という人物が登場するが、この「文字が違うと顔が変わる」というのが、まさに「円城塔は、文章を読み書きする際に、情景描写を画像として思い浮かべるのではなく、文章そのものとして扱う」ということの好例になっている。字面が違うのだから見た目が違うのだ(暴論)。

この作品で分かる通り、円城塔の小説は読者に語り掛けるような作品ではなく、読者に真意を探らせるような(しかしながら真意は分からないような)作品になっている。従来のようになんとなく置かれた文章をなぞるような読み方をすると、必ずや目が文章を上滑りすることだろう。

また、この作品はオーディオブックに翻案されることを拒否した作品でもある。この作品における最大の見せ場、25頁の「エイといい、エイといった。/エイといい、エイという。/エイといい、エイという。」(エイは変換不能)という部分は、(もはやこの解説でもそうなのだが)この小説として字で書かれた『文字渦』でしか読者に伝わらない面白さを含む。

まあ、円城塔の作品に関しては、分からないものは分からないとして、先に進むしか方法がない。

この作品をはじめとして、読者は文字の織り成す大きな渦へと巻き込まれていくことになる。これ以降、「文章を読む」ということに細心の注意を払って読み進めていただきたい。

 

 

『緑字』

恐らくこの「文字渦」を読み進めていくうえで最大の障壁となるであろう作品が『緑字』。実際、私は読みながら何回眠りに落ちたことか覚えていない。

この作品で扱うのは「光る文字」。何を言ってるのか分からないかもしれないが、とりあえず光るものは光るものだとしてまず納得するほかない。

「文章」が「文字」によって「情報」をコードするものだと規定すると、「DNA」が「核酸」によって「遺伝情報」をコードするものであるという対比から考えて、「光る文字」とはノーベル化学賞で有名になった緑色蛍光タンパク質GFP、Green Fluorescent Protein)のことだと比定出来る。ここで、『緑字』がGFPであることは、円城塔ツイッターでの発言からも確認出来る。

実際に参考文献を確認すると、ヴィンセント・ピエリボン、デヴィッド・F・グルーバー著『光るクラゲ 蛍光タンパク質開発物語』(青土社)とあることからも、「光る文字」が緑色蛍光タンパク質であると分かる。

この緑色蛍光タンパク質は、分子生物学の分野においてDNA中に導入した目的遺伝子の発現を確認するために用いられる。緑色蛍光タンパク質ネタは、「バナナ剝きには最適の日々」収録の『捧ぐ緑』でも披露されたネタで、円城塔はかなりこのアイデアを気に入っているのではないかと思う。

第三紀だの新生代だのという地質学的な要素はひとまず置いておき、増殖する謎の文字列ということに注目する。なぜか増殖する文字列というのはなかなか身近でないような気もするが、意外と身近な実例がある。それは「Word」などのワープロソフトだ。ワープロソフトなどで適当に文字列を入力しては消し入力しては消しを繰り返すと、中身の文字データが全く存在しないにも関わらず、データだけが膨れ上がるという現象が生じる。これはワープロソフトのデータにはフォーマットに関するデータが含まれているからであり、本文データがなくてもフォーマットのデータや編集履歴が保存されてデータ量が大きくなるために生じるのだ。(元プログラマ円城塔なら、非常に身近な存在だったに違いない)

ちなみに、「無限に連続する文字列」というアイデア円城塔作品に頻出するモチーフ。デビュー作『Self-Reference ENGINE』の巻頭に「全ての可能な文字列。全ての本はその中に含まれている。」とあることをはじめ、「バナナ剝きには最適の日々」収録の『エデン逆行』にて披露される「シェルピンスキー=マズルキーウィチ辞典」というアイデアも同様のもの。元ネタを辿っていくとアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「伝奇集」収録の『バベルの図書館』に行きつく。円城塔本人がマジック・リアリズムを大学時代好んで読んでいたということなので、ほぼボルヘスで間違いないと言える。(厳密にはボルヘスマジック・リアリズムではないが、細かい点には目をつぶっていただきたい)

また、この作品にはところどころで通常よりも一字余計下げた段落が挿入される。これの元ネタは、プログラムを書く際、セクションの主従関係を分かりやすくするために改行後スペースを入れて一段下げる配慮だろう。このような表現を導入する意図をいまいち掴めていなかったのだが、丁度後輩と話をして確からしい解釈を教えてらったのでそれを紹介しようと思う。それが「文章を検索する文章を検索する文章を……」という感じで『緑字』自体の入れ子構造を表現しているというものだ。確かに言われてみればこの入れ子構造との対比でそれらしく感じられるし、なにより「入れ子構造」というのが「Self-Referencial」(自己言及的)でいかにも円城塔らしい雰囲気。

 

 

『闘字』

『闘字』は円城塔の大法螺を楽しめる作品。墨と紙を用いて字を書き、書いた文字同士を闘わせる「闘字」という架空の競技を題材とした作品で、実際には存在しない「闘字」という競技を通じて文字への考察を深めている。

「闘字」は実際に存在するコオロギを闘わせる競技「闘蟋」を参考にしているようだが、五行の属性(火、水、木、金、土)によるじゃんけんのような相性というか、ポケモンのタイプ相性のようなものがあったり、則天文字に関するいかにも信じてしまいそうな架空の由来を語ったりと、円城塔の嘘か本当か分からない不思議な法螺話を存分に楽しむことが出来る。

勝手な勘繰りだが、円城塔の子供がポケモンかなんかに興味をもったかして、円城塔ポケモンに触れたのではないか。そんな気がする。もっとも、「Boy's Surface」収録の『Goldberg Invariant』に「雷撃を発する鼠」という記述があったので、ポケモンを知らないということはないと思うが。

なお、『闘字』の語り手は『微字』の語り手と同一人物であることが円城塔ツイッターで明かされている。

 

 

『梅枝』

この作品集の中でもっとも凶悪でありながら、もっとも重要な作品が『梅枝』。たったひとつの短篇でありながら、この「文字渦」全体を通して問う問題をすべて提示しているため、円城塔の問題意識に沿って考えないと相当苦労することになる。この作品で提示されるのは、「漢字についての議論の仮名への拡張」「小説を創作するという行為への問題提起」「小説を鑑賞するということの不確定性」だ。

本文にて最初に示される文章は、『源氏物語』の第32帖「梅枝」(うめがえ)の一節。『源氏物語』の一部をカタカナにしただけなのに、ナンデ、ニンジャめいたアトマスフィアになるのだろう。「二条院」を「ニジョーイン」と書き換えるのは文法としては全く正しいのに、なぜ日本語離れした感覚を覚えるのだろう。カタカナとひらがなは、日本語でありながら、互いになにか違うのかもしれない。これまで『文字渦』『闘字』と漢字についての考察のみにとどまっていた物語が、ここにきてカタカナとひらがなをも対象としはじめる。すなわち、「漢字についての議論の仮名への拡張」だ。このようにして、円城塔は、漢字への疑念からはじまって日本語という体系にも疑問を投げかけたのだ。

かつて、ひとびとは『源氏物語』を巻物に書かれた、ひらがなだけで構成された続け字を通して読んでいた。それを今では、ひとびとは冊子に書かれた、漢字とひらがなの入り混じった活字を通して読んでいる。これは果たして同じ作品を読んでいると言えるのだろうか。この議論は「小説を鑑賞するということの不確定性」の議論へと繋がっていくことになる。

また、この作品では『誤字』『かな』に向けた理論的な土台作りを行っている部分が散見される。代表的なものが、86頁の「そう、紙の本は『コンテンツを入れかえる』ことができないし、『文字の大きさやフォント、レイアウトを変更する』こともできない。」という一文だ。

円城塔が主張するのは、「小説」とは、単なる文字データではなく、読者の読むべきフォーマット(出版形態、文面、紙質、etc)も含めたものだ、ということだ。これが「小説を創作するという行為への問題提起」だ。

文面に対する理系的アプローチとして、作中では二次元五近傍セル・オートマトンが導入される。セル・オートマトンとは、ジョン・フォン・ノイマンが提示した概念で、有名な例として生命をシミュレートするために考案された「ライフゲーム」がある。(「ライフゲーム」も二次元五近傍セル・オートマトンの一種)二次元五近傍セル・オートマトンでは、中心のセルとその周囲を囲む4セルに注目し、周囲4セルを参照して中央のセルが変化するという機構になっている。

ここで、円城塔の理系的アプローチが文系的アプローチとの奇妙な一致を見る。それは京極夏彦が実践している、「小説中の文字同士の字面のバランスを整える」というものだ。京極夏彦は、文中に複雑な漢字がある場合、その上下左右に配置される文字は空白の多い文字でなければならないという美意識をもっており、実際に作品でもそれを徹底している[2]。(なので、文庫化作品はすべて作業を経て若干変更されており、「文庫版」と改題されている)

つまり円城塔は、「小説家」は小説のテクストそのものだけでなく、「小説」として読者が観賞するすべての要素を意識し、自分の「小説」として制作しなければならない、と主張しているのだ。これが「小説を創作するという行為への問題提起」だ。

ちなみに、このセル・オートマトンも以前「Boy's Surface」収録の『Your Heads Only』に登場したモチーフである。しかしながら、円城塔有数の“難解”な作品集に収められた同作ではそこそこ丁寧な説明とともに導入されていたものの、『梅枝』ではいきなり二次元五近傍セル・オートマトンを導入しており、凶悪さが増している。

一方で、円城塔がよく用いるモチーフがもうひとつ登場する。それが「翻訳」だ。「道化師の蝶」収録の『松ノ枝の記』で展開された議論、「翻訳作品は原典と同一だと言えるか」というものが頭をのぞかせる。ここで円城塔は「小説を鑑賞するということの不確定性」を示す。漢字と仮名、データとフォーマット、原典と翻訳という対比から、円城塔はこれまで誰もが無批判にそうだと考えていた「同じ“文章”を読めば、同じものを読んだということになる」ということを否定する。(厳密には「同じじゃないんだ」と言って読者を煙に巻く)

ここまでかなりの文量を使って紹介してきたが、この作品の精髄は、最後に示される一文だろう。「昔、文字は本当に生きていたのだと思わないかい?」

『梅枝』が梅枝である理由について、円城塔ツイッターでこう語っている。

 

 

『新字』

この短篇集で私が一番好きなのが『新字』。序盤こそ布石というか、状況説明のために若干話の展望が見えてこないものの、境部石積と鴻臚卿・蕭嗣業との交渉の場面に進むと、一気に想像もつかないほど大きな物語の輪郭が見え始める。

日本語という言語体系の中には、三つの異なる文字コードが存在する。すなわち、ひらがな、カタカナ、漢字である。このうち、漢字は日本語由来のものではなく、中国で成立したものをそのまま輸入して使用している(そもそも、ひらがなとカタカナも漢字から作りだした文字である)。なぜ中国語という異質な言語に最適化された文字を、日本語に直接取り入れたのだろう。そして日本人は、漢字を自分の文化に吸収し、漢字から仮名を作っておきながらなぜ漢字を保存したのだろう。その答えを明かすのが『新字』だ。

円城塔の作風のひとつとして、「最初にある意味不明な命題を示し、その命題が確からしいことの証明を積み重ねていき、最後にその命題から引き出される最も信じがたい事実をぶち上げる」というものがある。『新字』ではこの作風をよく認めることが出来る。

近代以来、国家とは国民国家であるとだれもがどこか当然のように思っている。しかし、社会学の分野で指摘されている通り、同じ言語を使用する集団が国家を成すとした方が、より自然に感じられる。文字を書くということは、一片の疑いなく、国を建てるということなのだ。

ちなみに、円城塔はおそらくこの『新字』や『誤字』で中国批判をしようとしたらしいが、それをやると中国に入国拒否されてしまうかもしれないのでやらなかった、とインタビューで語っていた[3]。

 

 

『微字』

『微字』では、本の地層から発見された「微化石」ならぬ「微字」を中心に物語が進む。

物語冒頭の「本は、表紙を下にして、順に重ねていくものだ。」という文章がすべてを表していると言ってもいい。円城塔がこの作品で提示したいことは「本とは紙を積み重ねた形状のもの」ということであり、最終的に提示したいことは「小説を無限生成する小説を生成したい」というものである。

「本とは紙を積み重ねた形状のもの」という主張は、『梅枝』で提示した主題を強調しており、本作はその主張を補強するために「地層としての本」「微字」「自己増殖する文字」などのアイデアが次々に導入されていく。

この作品で重要なことは、「自己増殖する文字が存在した」ということと「文字を生成する門構えが存在した」とうことだ。これらが合わさると、「文字を生成し、かつ自己増殖を行う文字列が存在する」ということになる。文字を生成し、増殖する文字列。これはプログラム言語にほかならない。

プログラム言語から成る小説を書き、その小説がさらに小説を書きはじめたら、小説というものにはどのような変化が起こるのか。大変「Self-Referencial」な疑問であり、興味深い。そのようにして有限時間において無限の文字列から成る小説を産み出すことが出来るとすると、その小説には可能な文字列がすべて、すなわちありとあらゆるすべての小説が含まれることになる。この“小説を生成する小説”が完成すれば、もはや小説家というものも小説というものも必要なくなってしまう。しかしながら、それを実際にやって小説の上げ足をとって笑おうというのが円城塔の考えていることだ。

話を脇道に逸らすと、この作品は続け字が死に絶えて活字が生き残ったことの理由を明らかにする作品にもなっていることが分かる。続け字は門構えによる爆発的な増殖の恩恵にあずかることが出来ず、増殖する活字に追いやられて消えて行ってしまったのだ。併せて印刷技術の開発により利便性に劣る続け字はついに消え去ってしまったのだった。

「利便性」の一言で、筆記体系が根底から変わってしまう。技術系の分野ではよく見られる現象(VHSに対するベータマックスなど。正直なところ、私はベータの実物など見たことないのだが......)だが、文字でも同じことが起こってしまうのだ。こうやって一見互いに共通項のなさそうな理系的なところと文系的なところが交わる不思議さが、円城塔の魅力のひとつだ。

 

『種字』

『種字』はサイバーパンクっぽいなにか。「新潮」で読んだときからよく分からないなあと思っていたが、読み直してみたところやはりよく分からなかった。解説と言っておきながらこの作品を全く理解出来ず無念極まりない。

おそらく『梅枝』で提示された翻訳に関する話題がひとつの鍵となってくると思うのだが、なんとも見通しが立たなかった。

 

 

『誤字』

この作品集で一番フォトジェニック(?)なのが『誤字』。実際にちょこちょこバズっているのをネット上で見かけることがあった。

この作品は本文に対してルビがもうひとつの本文としての役割を果たしている。“小説を書く”ということはどのような行為なのか、さらに“日本語”で“紙の本”の“小説を書く”とはどのような行為なのかを考えた末にこの作品に辿りついたのではないかと思う。

物語を描くならば、小説でも漫画でもアニメでも映画でも、何でも出来る。文章で物語を表現するのだとしても、戯曲でも脚本でもいいわけで、小説である必要がない。

そもそも日本語で書くということにも、必要性がない。英語が読み書き出来るなら、英語で書いた方が世界中で売れるだろう。

そして、紙の本でなくてもいいはずだ。これだけ技術が発展した世の中で、小説だけが技術の発展に取り残されている。

日本語の小説にあって、他の文章に依拠するメディアに存在せず、かつ電子書籍でも活用出来ないものと言えば、ルビということになる。これに加え、日本語の(国内作家の、邦訳の)SFにおいてルビが大きな意味をもつことが日本語のSFの大きな特徴のひとつ、という主張は様々な人が口にすることだ。

これらをまとめて解決するために、円城塔は、日本語の小説に特異な「ルビ」を多用することで、電子化・文庫化不可能な『誤字』を創りあげたのだろう。(とはいえ、円城塔本人は適切なコードを書けば電子化も出来るだろうと言っている[3])言うなれば、この『誤字』は『梅枝』で提唱した問題の解決篇に位置する作品であり、円城塔が「日本語」の「紙媒体」の「小説」を書くとはどのようなことかということを突き詰めた末に出来上がった作品だ。

SFにおいてルビで有名な作品というと、筒井康隆の『トーチカ』(新潮文庫「笑うな」収録)と、黒丸尚の訳によるサイバーパンク作品、特にウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が挙げられるだろう。

筒井の『トーチカ』は当時の海外SFの翻訳にあふれていた不思議なルビにヒントを得た作品。当時(そのころ)海外(イカ)SFの翻訳(よみかえ)には固有名詞(おなまえ)漢字(もろこしのじ)表記(あらわ)してルビで説明(ペチャクチャ)()っているものが多く、それを面白(ファニイ)おかしく強調(ハイライト)してこの作品(おまんまのたね)になった。(実際の『トーチカ』本文もこんな感じ)『トーチカ』については、円城塔ツイッターで確かに言及している。

上記の通り円城塔本人も『トーチカ』は知っているらしいが、筒井康隆作品は『虚航船団』の冒頭2頁を読んだだけでその他の作品は全く読んでいないらしい。そのため直接関係はないものの、同じSF作家に分類される作家の才能が同じ方向へと収斂したというのは興味深い。

一方『トーチカ』と並んで言及されている「ルナ・ヴァルガー」だが、秋津透の『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』を指しているようだ。ルビを多用した独特な文体が特徴らしい。(こちらは今回初めて知ったので他に何も言えない)

話を戻そう。『誤字』においてルビの語る内容面に注目すると、日中韓台の四か国による漢字を介した侵略戦が行われているという内容であり、『新字』で語られた文字による建国というものが現実味を帯びて(?)語られており、面白い。

このルビは「南朝」だといい、おもにひらがなをつかっている。一方本文は「北朝」だといい、漢字を使用している。現実の歴史では、後醍醐天皇足利尊氏に攻められて三種の神器と共に吉野へ逃れたことで南朝が生じることになり、尊氏が新たに光明天皇を擁立したことで、朝廷が南北に並立する事態に陥った。(その後歴史上紆余曲折あって、正当なのは三種の神器を持っていた南朝だが現在に続くのは北朝というなんとも不可解なことが起こっているらしい)

この北朝は足利氏、すなわち武士の庇護のもとに成った朝廷であり、直後の室町幕府の成立から見られるように、政治の実権はふたたび武士に移行する。一方で南朝後醍醐天皇建武の新政を実施したように、天皇親政、すなわち貴族や皇族が政治の中枢を担う体制に帰ろうとしていた。武士の言葉は漢字であり、貴族の言葉はひらがなである。南北朝の争いとは、実は日本語の主権を巡る漢字とかなの争いだったのだ。(な、なんだってー!!)

この死にゆく貴族の「かな」言葉が最後の最後でなんとかひとりだけ生き残り、ある方角に走って逃げたようだ。ある方角。文章は、必ず一定の方角に向かって流れている。この「文字渦」の流れていく先には『かな』という作品があり、見てわかる通り、この作品はこれまで漢字だけで構成されていた題とは異なり、かなのみによる題の作品である。「かな」はなんとか逃げおおせて『かな』を成したのだろう。

「ルビはひらがなである」ということからこんな突飛な発想へと円城塔は(おそらく)論理的に至ってしまう。無限の想像力とは、このことを言うのだろう。

ルビに関してさらに言えば、二回目にルビが登場して北朝による討伐などと言っているシーン(194頁)、最後は「ハレルヤ」で終わるのだが、なんかそんな終わりかたをする有名な作品があったような。ネタバレするのは惜しいのでここまでで留めておく。

さて、先に示した、円城塔が「文字渦」を通して問う問題はこれですべて解決されてしまった。それでも「文字渦」はまだまだ続くわけで、ここからは未知の文学的領域へと足を踏み入れることになる。

余談になってしまうが、筒井康隆の作品には『佇むひと』のように新たに創られた漢字が登場するものや『残像に口紅を』のように話が進むごとに作中からひらがなを一文字ずつ取り去ったものなど、言語に関する作品が多く存在する。円城塔の言語に関する考察が好きな人ならば、きっと筒井康隆の言語SFも楽しめるだろう。

(「文字渦」の電子書籍版が1月4日に発売された。私はまだ購入していないのだが、話を聞くと『誤字』も『天書』もきちんと電子化されているらしい。まあ『誤字』は円城塔本人が電子化出来るといっていたので問題ないが、問題となるのは『天書』。さすがに、あれを電子書籍の文章にするわけにはいかず、画像として挿入するにとどまったらしい。あのような表現には、電子書籍よりも物理書籍の方が長けているということだろう。2019年1月6日加筆)

 

 

『天書』

『天書』は円城塔が大いに暴れまわっている作品。上空に漢字で出来たインベーダーゲームの画面が浮かんだり、門構えから生成・射出される漢字が登場したりと、やりたい放題していて非常に面白い。ただ遊んでいるのではなく、円城塔にとっては、文字に対して感じる不思議さを最大限表現するためにはこれでなくてはならなかったのだろう。

以前、2chだかの掲示板の「【悲報】最近のラノベが酷すぎる」だとかいうスレッドで、「最近のラノベ」と称してベスターの『虎よ、虎よ!』のタイポグラフィの頁の写真がアップロードされて荒れに荒れているのを見かけた。この『天書』に登場するインベーダーゲームの頁を撮って「【悲報】最近の芥川賞作家の作品が酷すぎる」とか言ってスレ立てすれば、話題になるのではないだろうか(錯乱)。

また、スペースインベーダーを表す漢字群をひとまとまりで一字だとするのは不可解に思われるかもしれないが、だれもが触れたことのあるものに、そういう見方をするものがある。それは書道だ。書道では紙に書かれた文字全体を通して均整を保ち、全体に対して美を見出す。もはやひとつの作品はひとつの文字にほかならず、その作品からたった一文字差し引かれたらまったくの別物なのである。そう考えるといかにも馴染み深く、いかにも理解出来そうな気がしてくる。(してくるだけ)

この『天書』における字のまとまりを一字とみなすという考えの下、『微字』『誤字』での主張もまとめると、この「文字渦」というテクスト、ルビ、紙、造本、フォント、行数などをすべて含めた「小説」がひとつの文字であるということになる。

こんなに意味不明なことをいっても、SFならその内容が面白ければすべて許される。面白いだけでほかのなにもかもを無視出来るSFの自由さが生み出した作品である。

(すっかり書いた気になって書くのを忘れていたことがひとつある。それは『天書』や『幻字』に見られる円城塔の「文字を使って遊ぶ」という行為が、筒井康隆が『虚航船団』(新潮文庫)や『底流』(集英社文庫「あるいは酒でいっぱいの海」、角川文庫「佇むひと」収録)で見せた表現と重なって見えることだ。円城塔が「筒井康隆の作品は、自分がこれからやろうとしていることを先にやってしまっているのではないかと思って読めない」ということを言っていたのは、確かにこういうことなんだろうなと思う。2019年1月6日追記)

 

 

『金字』

『金字』は正直よく分かっていない。

冒頭のメカ親鸞は反則というか、どこからそんな発想が出てくるのか聞きたくなるレベルの面白さ。それに加えてアミダ・ドライブなどの『ブッシャリオン』や『天駆せよ法勝寺』のようなブッダめいた文言が多数登場し、ギャグとして超一流だと思う。字面だけ読み取っていくならば、この作品が一番面白い。

しかしながら、理論面で一番難解なのはおそらくこの作品であり、私には仏教の知識などが不足しているため理解が追い付かなかった。各作品解説とは銘打ったものの、この作品に関しては解説と言えるだけの内容を提供出来なかった。反省。

 

 

『幻字』

『幻字』は円城塔による横溝パロディ全開の推理(?)作品。『犬神家の一族』を土台に、ありとあらゆるパロディをぶちこみまくった酷い作品。ちょっと私も把握しきれていないので、横溝作品に詳しい人がいればぜひ教えていただきたい。

最初の「ワクワクの木」も大概だが、最後のネタあかしもひどい。最初から最後まで徹底的にひどい(誉め言葉)。ここまでくれば、円城塔の本質がギャグだということを納得していただけたのではないかと思う。理系・文系双方の知識を総動員し、現代日本文学最高の才能を用いて描き出す作品の本質は、ギャグなのである。

こんなことをいうのもあれだが、この作品は円城塔の露骨な人間アピールともいえるかもしれない。

 

 

『かな』

『かな』はこの「文字渦」に収録された十二作の中で、唯一漢字でない題名を持つ作品。作品集の最後に配置されている通り、他の作品をどんな順番で読もうとも、この作品だけは最後に読んだ方がいいと思う。

私の国内SF長篇のオールタイムベストは「文字渦」なのだが、それはこの『かな』が最後に存在するというのが大きい。

これまでの短篇の題名はすべて漢字表記だったにも関わらず、この『かな』だけがその基準から外れている。まあここまでくれば、あの円城塔がなにも仕込まないことはないよな、と思うはず。

ちなみに、円城塔の「かなSF」には、『Self-Reference ENGINE』収録の『Japanese 13』という作品もある。漢字、漢漢字、漢漢漢字、平仮名、片仮名、平片仮名、片平仮名、片片仮名……というように、無限に増殖する文字コードから成る「日本文字」という謎の文書が登場する作品で、お察しの通りひどい作品。またこの『Japanese 13』はおそらく同作収録の『06 Tome』と対になっていると思われる。『06 Tome』は「鯰文書」と呼ばれる一連の文字群を記述した文書から文字群が消失した事件を扱った作品であり、“Near Side”『06 Tome』で消失した文字群が“Far Side”『Japanese 13』に出現しているのではないかとも考えられるのだ。

解説に戻ろう。『かな』の最後の最後、「ようやくこどものこえとすがたをてにいれることのできたわたしはつぎこそは、じぶんのことばにそだとうとおもう。」これを読んで、私はあまりの感動に泣いてしまった。

この『かな』は、明らかに紀貫之が語り手である。紀貫之と言えば、特に直前の段落「男文字なる〜」で思い出すと思うが、『土佐日記』の作者である。この『土佐日記』の語り手は女であり、この女は京で生まれた幼い娘とともに土佐に下ったものの、ふたたび京に上るときには既にその娘を喪っていた。(「この家にて生まれし女児のもろともに帰らねば、いかがは悲しき。」『土佐日記岩波文庫)おそらくほとんどのひとが『土佐日記』の冒頭部を知るだけで全体を通じて読んだひとはいないと思うので、機会があったらぜひ読んでいただきたい。日記のところどころで、幼い娘を思い出して悲しみに暮れる女の言葉が生々しく残されているのが確認出来るだろう。そんな幼くして亡くなってしまった娘が、ふたたび肉体を得て、語るべき言葉を見つけてそれをめざそうというのである。みなさんには訳の分からない空中戦を観ているような感覚だろうが、私は分からされてしまったので、私はそれを丁寧に解説しなければならない。

先ほどこの作品の語り手を紀貫之と言ったが、厳密にはそれは誤りである。正確には「つらゆき*1」が語り手であり、これは『誤字』のラストで命からがら逃げ出してきた「かな」であり、後ほど言及する「をむなもじ」と同一の存在である。『誤字』では辛うじてルビとして語らざるを得なかった「をむなもじ」が、『かな』で本文という「こえとすがた」を得て語りはじめたのだ。

円城塔の言う通り、日本語はかなだけを使っていた平安ごろの言葉から、意味がうつろってしまった。そうして汲みとれなくなった意味こそ、『土佐日記』の書かれた「今日」から今に至るまでに喪われてしまった「をむなもじ」なのではないだろうか。そしてその円城塔に見出された「をむなもじ」は、千年の時を経て、その忘れられていた間に書き溜めてきたことを私たちに提示してくれるという。

ここで、ひとつ考えて欲しいことがある。高校古典の授業で習ったと思うが、千年前、ある時期までは仮名文学(国文学)は漢詩などの漢文学に比べて一段劣るものとされていた。それが初の勅撰和歌集である『古今和歌集』において真名序と仮名序が併記されたことによって、ついに国文学は漢文学に並んだのだ。その仮名序を手がけ、かつ日本初の仮名文学『土佐日記』を完成させたもの、それが紀貫之である。紀貫之が仮名文学を成し、国文学の土台を完成させてから千年あまり、それらすべての集大成として円城塔の『かな』が誕生した。この作品は、SFであることを前提としつつ、それ以前に国文学という千年以上にもわたる大いなる文学の系譜がなければ絶対に生まれ得ない作品なのだ。

また、ひっそりとだが、円城塔は『かな』でこんなことを書いている。「わたしはようやくこれまで自分がなにをかこうとしてきたのかがわかりつつある。」(298頁末)ついに、ついに円城塔は自分の書くべきことを知った。これから円城塔がなにを書いていくのか、それは過去千年にもわたる日本文学で過去に行ったもののないようなことであり、それこそが「文字渦」の示す日本文学の新たな極地なのだ。

一方で、これは「をむなもじ」から現代の日本語に対する宣戦布告にほかならない。今ある日本語は、漢字・ひらがな・カタカナの三種があるからこそ表現出来るものによっても成り立っている。日本語に立脚する日本という国、文化に対しての侵略なのである。これは『新字』や『誤字』でも示されたことであり、言語という知覚出来ないものから現実世界への、紛れもない侵略行為なのである。(同様の侵略は「Boy's Surface」収録の『Goldberg Invariant』や長篇『エピローグ』、円城塔が大好きなボルヘスの短篇『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』にも登場する)

果たしてこれが、今の「文学」という枠を自ら決めて、その枠の中で新しいとされるくだらないことを表現しているようなつもりになっている純文学の場で表現出来るだろうか。小説というもの、言葉というものに関心を持ち続け、それらを小説によって、言葉によって書こうとした小説家がいるだろうか。これは真に純文学的な作品だが、SFの想像力、SFの表現力がなければ生まれ得ない作品である。どちらがより自由で、どちらがより面白くて、どちらがより「文学」的か。それは既に、明確に示されている。

 

 

所感

川端康成文学賞を受賞したというのだから素晴らしいのだろうと期待していたが、「文字渦」はその期待をはるかに飛び越え、天高く見えないところまで飛んで行ってしまったという感がある。いつまでたっても円城塔の後ろ姿、足跡しか見えない。なんという才能なんだろう。読み終えた時の興奮は今でも冷めやらない。

これまで円城塔作品を読んできて、正直に言って、もう自分は円城塔の方法論と文体を理解し、ある程度吸収出来ていると考えていた。円城塔が「文字渦」の諸作品を「新潮」で連載しているときから読んでいて、面白く読みつつも、本質的なところでは(いつもの円城塔だ、円城塔なら確かにこう考えるよね)と、円城塔を完全に把握しきっていたと考えていたのだった。しかし、その甘い考えは『新字』『かな』で完全に破壊されてしまった。円城塔は、私の理解していたような方法論は確かになぞってはいたのだが、それは初歩的なものに過ぎなかった。円城塔本人は、それからさらに飛躍して先へと向かっていたのだった。

『新字』には漢字が今でも日本語の体系に残っている理由についての嘘の発想と、その嘘によって転換するものの見方、そしてそこから織りなされる物語の濃さに圧倒された。「字を書くことは、国を建てることである。」これに納得するとともに、この先のSFはこのヴィジョンを越えていかなくてはならない、という絶望的な偉大さにただただ圧倒されるばかりだ。

『かな』は国文学千年余りの集大成と言える作品だ。この作品は日本語以外の言語では書けない、書いてはならない作品であり、翻訳不可能な作品になっている。この作品こそが、明治以来の近代文学の成した最高の成果であり、漱石から続く日本語の「小説」というものはついに円城塔で完成を見るに至った。そして円城塔は、この「文字渦」で次に書くべきものを知った。この『かな』を同時代で読めたことに感謝したい。これから円城塔が成す新たな文学を、同時代で読むことが出来るのは、間違いなく幸福だ。

私は、円城塔の先に行く力はないとつくづく思い知らされてしまった。私には、円城塔の一部を理解する程度の力しかなく、その一部だけでも円城塔の想像力は私には到底辿り着くことの出来ないものだと確信するには十分だった。私は円城塔が今後示していくであろう文学を考え、作品を徹底的に読んで理解を深めていくことで、なんとかその果てなき思索の果を追っていこうと考えている。

ちなみに、「文字渦」全体の繋がりの一部はこんな感じになっているらしい。

 

 

総解説

これまでの各作品解説で既にあらかた解説してしまっているようにも思うが、この節では「文字渦」を中心とした円城塔作品そのものの解説を行う。

まず、「文字渦」全体の中心となる作品は『梅枝』だろう。前掲の通り、物語の根幹である『かな』に登場する『土佐日記』は『梅枝』の境部さんの校訂本であること、「文字渦」を通して強調される問題提起がほとんどすべて『梅枝』でなされることが主な論拠だ。

したがって、『梅枝』で提示される問題意識にしっかりと沿い、円城塔の思索を作品を通して垣間見ることが「文字渦」を読む上で非常に重要だ。作品全体を通してつかみにくい部分があったら、まず『梅枝』を再読してみて、境部さん(=円城塔)の語っていることを理解しているかどうかを確認するべきだ。

ちなみに言うと、この「文字渦」は円城塔作品の中ではかなり手加減された(もしくは、いつもの人を突き放すような突飛極まる発想が、文字を題材とするという制約によってある程度緩和されて物語に導入されている)作品である。この一冊を読み通せば大分円城塔についての理解が深まると思うが、いかがだろうか。円城塔は、本質的にはギャグの人であり、一見訳の分からないことを定義しておき、それを丁寧に考察し、文学的アプローチと理学的アプローチを交互に使い分けて論理を押しすすめ、矛盾を導いて従来の体系を刷新し、最後に定義から導かれる最も信じがたくも確からしいことを読者に納得させる。ほら、簡単でしょう?

ただ、円城塔が一口に言いきれないのには、その文学的アプローチと理学的アプローチの間の振れ幅が非常に大きい(例:「バナナ剝きには最適の日々」収録の『エデン逆行』)ことと、文学・理学を融合させたようなプログラミング的アプローチ(例:『緑字』)がさらに隠れていることにあると私は考えている。

また、円城塔作品が難解である最も大きな理由として、円城塔が無類のパロディ好きであるということが挙げられる。ざっとこの本を概観してみても、兵馬俑緑色蛍光タンパク質、無限の文字列(ボルヘス)、プログラミング、架空の本(ボルヘス、レム)、ゲーム(闘蟋、スペースインベーダ―)、源氏物語セル・オートマトン、書道、密教、ルビ(筒井、黒丸)、横溝、土佐日記......と、パロディ元は古今東西文理を問わず多種多様である。ここまで色々なところから要素をもってこられると、もはや読者に理解させる気がないと言ってもいいだろう。これが円城塔作品が「難解」な理由なのだ。

なぜ円城塔の作品が難解なのかという疑問に対しては様々な回答を与えることが出来るが、私は難解であることが円城塔の作品に必要だからだと考えている。作者は必ず”なにかを伝えるために小説を書く”のであり、なにも伝えない作品があったとしても、”なにも伝えない小説を書く”という目的意識の下に書かれた作品であると解釈することが出来る。(例:筒井康隆『フル・ネルソン』)また、発表された作品はすべて作者がなにか伝えたいことを伝えるために最良の形をとって発表されたものであると考えられる。(逆に言えば、作者は自身の伝えたいことを最良の形で伝えられる作品を発表しなければならない)そして、円城塔は作品を通じて「円城塔の作品は難解である」ということを読者に理解させることには成功している。これらを前提として考えると、円城塔が伝えたいことは必ず難解な作品を通じて伝えなければならないことであると考えられる。難解な作品は、読者の理解を拒む。これこそが円城塔の伝えたいことを伝えるために必要な核心的要素なのではないだろうか。

 

だが、ここで、文学作品を「理解する」とはなんだろうか、という根本的な問題が浮かび上がってくる。円城塔からいったん離れて、この「理解する」という行為について考えてみたい。

文学作品を鑑賞し、読者は作品を「理解する」。作者は文学作品を読者に「理解させる」ことが出来るように書く。これはいかにも確からしい関係だが、本当にそのような関係は成り立つのだろうか。

まず、文学作品を“作者のなんらかの思索の結果を物語のうちにパッケージとしてまとめたもの”であると定義する。作者は“なんらかの思索の結果”を上手く読者に伝えるために、必要十分な洗練された表現を求めて日夜試行錯誤を重ねるわけである。この”なんらかの思索の結果”を別の方法で伝えられるならばさっさとそれで伝えた方が経済的であり、わざわざ文学作品という書き手と読み手の双方に時間と労力を必要とするメディアで伝えようとするのは狂気の沙汰だ。逆に言えば、作者が文学作品を通して伝えたいことはその文学作品というパッケージでなければ伝えられないような類のものなのだが、これにはある「失敗」がつきまとう。

それは「読者が誤解する」というものだ。文学作品は、作者の手を(ある程度)離れ、そこに置かれたパッケージとして鑑賞される。文学作品は発表された以上“あらゆる読者によるあらゆる読みを許す”ものであり、文学作品は“あらゆる読者にあらゆる読みを許しつつ、それでもある一定の方向に読者を誘導し、作者の狙ったなにかへと導くための言葉の集積体”として再定義出来る。そして文学作品は「それを通した狙いがなにで、読者にそれをどの程度読みとらせることに成功したか」によって評価を定めることが出来ると考えられる。

しかし、それは結果論的なものであり、作者の意図を正確に読み解くことは本質的に不可能だ。(例えば、作者は甲と伝えたかったのに失敗して乙ということを伝える文章になっていたが、読者はそれを読んで確かに乙と思い、高評価を下す、というのは作者側から見れば失敗である)与えられたテクストから作者の思索を完全に理解することは不可能である、というのが円城塔円城塔本人にしか分からないような作品を通じて伝えていることであり、逆に言えば、それだから円城塔は安心して本人にしか分からないような物語を書き続けているのではないか。(これは神林長平の創作に対する姿勢に似ている。神林は小説以外の文章を発表しないのだが、それは小説が誤読を許す特異なメディアであるからだと小説『いま集合的無意識を、』にて語っている。文章というものは必ず誤読されるメディアであり、それならば最初から誤読を許すような小説というメディアで表現を行いたいと語っていた)

円城塔は、作品を読者が「理解する」ことを拒否した最初の作家として、日本文学史に残る作家となるだろう。これまですべての人が漠然とそうだと考えてきた“文学作品は読者に理解されなければ意味がない”ということを円城塔は論理的に否定し、さらにその言説の上げ足を取って遊ぶのだ。(他人に理解されない小説を書くものは過去にも多くいた。しかし、それらはたんに理解されないだけの自己満足なものであり、立脚する理論のない空虚なものだった。円城塔は読者に理解されない作品の背景に強固な理論が存在することを読み取ることが出来るからこそ評価されるのだ)

小説というメディアは本質的に理解不能であるということを、円城塔は小説を用いて表現しているのだ。このようなことを主張する作家がほかにいるだろうか。少なくとも、国内にはいない。だからこそ、円城塔の作品は日本文学最高峰の作品とされているのだ。

 

本題に戻ろう。

以上のように日本文学界でも他に類を見ない才能をもつ円城塔は、「文字渦」を通じて日本語という言語を徹底的に考察し、ついに「つぎこそは、じぶんのことばにそだとうとおもう。」(『かな』)という目標を提示するに至った。正直に言って、これは円城塔以外には完全に理解不能な域に達している。しかし、先の言葉通り、円城塔には目指すべき目標が分かっているらしい。

この「文字渦」は日本文学にとって、また円城塔にとってひとつの到達点であり、かつ今後切り開かれていく新たな文学の出発点に過ぎない。その円城塔の行く道を、なんとか理解しようと努力し、その歩みを見届けていくのが私たちに出来る、数少ないことのひとつだ。

 

今後の円城塔攻略指南

「文字渦」さえ読み切ってしまえば、円城塔をどのように読めばいいかという方針は立ったのではないかと思う。そこで、次に円城塔を読むひとに向けて、攻略チャート的なものを作成したので参考にしていただきたい。

1.『リスを実装する』(kindle publishing)

Amazonプライム会員ならば無料で読める短篇。「リスを実装する」ことを通じて円城塔の「異常なものの見方」が垣間見える作品。冒頭から延々と「リスのマーク」の様子が描写されるのだが、実はそれらの描写は現実のマークの行動を描写しているのではなく、ディスプレイに流れてくるただの文字列だということが途中で明かされる。ネタバレっぽいので書こうかどうか悩んだのだが、これぐらい知っておかないと円城塔に振り落とされてしまいかねないので内容に踏み込んで紹介した。 

2.『チュートリアル』(kindle publishing)

これもAmazonプライム会員ならば無料で読める短篇。「もしセーブポイントが実在したら」ということを徹底的に考え抜いた作品。気軽に読めて戸惑うことは少ないので初心者向け。この作品は、円城塔の『チュートリアル』だ。文字通り。

チュートリアル (Kindle Single)

チュートリアル (Kindle Single)

 

3.「バナナ剥きには最適の日々」(ハヤカワ文庫JA

「難解で知られる芥川賞作家円城塔の、比較的分かりやすい短篇集」と言われるなにか。ただし、『エデン逆行』や『コルタサル・パス』など非常に難解な作品も含まれているので、解説が必要であればぜひ私まで。喜んで語ります。 

4. 「これはペンです」(新潮文庫

比較的簡単。「叔父は文字だ。文字通り。」と冒頭にある通り。円城塔の作品は、書かれているままに読めばいいので、気楽に読むこと。

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

 

5.「道化師の蝶」(講談社文庫)

これも比較的簡単。ただし、表題作よりも『松ノ枝の記』の方が面白い。一応、芥川賞受賞作ではあるのだが、出来は『これはペンです』の方がいいと思う。

道化師の蝶 (講談社文庫)

道化師の蝶 (講談社文庫)

 

6.「オブ・ザ・ベースボール」(文春文庫)

デビュー作その1。これは若干面倒。個人的には、表題作と一緒に収録されている『つぎの著者につづく』が好き。この作品の題名の元ネタはR・A・ラファティ『つぎの岩につづく』だが、実のところ円城塔ラファティを読んだことがないらしい。

オブ・ザ・ベースボール (文春文庫)

オブ・ザ・ベースボール (文春文庫)

 

7.「後藤さんのこと」(ハヤカワ文庫JA

少なくとも、量子色力学という言葉を知ってから読んで下さい。

後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)

後藤さんのこと (ハヤカワ文庫JA)

 

8.『Self-Reference ENGINE』(ハヤカワ文庫JA

デビュー作その2。第2作「Boy's Surface」よりは手加減して書かれた第1長篇。前半10篇から成る“Near Side”こそ手加減されているものの、後半10篇から成る“Far Side”には読者に理解させようという配慮がまったくない。とりあえず1冊通して読んでみて、後から理解を補っていった方がいいと思う。

あえてこの作品を最初に読んで返り討ちに遭うのも悪くはない(実際私自身はその道を歩んだ)。しかし、せっかく円城塔に興味をもってもらえたのにそういうひどいことはしたくないので、うしろの方に位置させている。

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

 

9.「Boy's Surface」(ハヤカワ文庫JA

少なくとも、最初に読むのは止めた方がいい。ただ、ものすごく面白いことは確定的に明らか。

Boy’s Surface (ハヤカワ文庫JA)

Boy’s Surface (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

未読:「烏有此譚」『屍者の帝国』『プロローグ』『エピローグ』「シャッフル航法」

 

 

参考文献

[1]円城塔、「動機 - mojika」

https://scrapbox.io/mojika/動機

[2]JBPRESS、『京極夏彦氏はここまで「読みやすさ」を追求していた』

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53511

[3]円城塔、「常に笑えるホラ話を 円城塔、新作『文字渦』を語る(2)」、ニコニコニュース

https://news.nicovideo.jp/watch/nw3849372

[4]紀貫之、『土佐日記』、岩波文庫

[5]神林長平、「いま集合的無意識を、」、ハヤカワ文庫JA

[6]ホルヘ・ルイス・ボルヘス鼓直 訳、「伝奇集」、岩波文庫

*1:この「つらゆき」は紀貫之の娘だと考えられる。当時の女性の名前は今に伝わらないことが多く、藤原道綱母菅原孝標女のように、家族の名をとって伝わっている。この「つらゆき」も、厳密には紀貫之女と記述すべき人物ではないかと考えられる。