SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

星新一研究Ⅰ「『殉教』の初出版と文庫版との比較」

導入

星新一は、日本人ならば読んだことがない人のいないほど広く親しまれ、愛されてきた作家だと言える。

このように星新一の作品が時代を超えて愛され続ける理由として、星作品に特有ないくつかの特徴が挙げられるが、特に顕著なものは以下に挙げる三点である。

・作品自体が非常に短いこと

・作品が平易な言葉かつ非前衛的手法で書かれていること

・物語からエロ・グロ・ナンセンス・時代的な要素・場所的な要素が排除されていること

この中でも、特に「物語から時代的な要素が排除されていること」は有名である。例として、「ダイヤルを回す」という言葉を「電話をかける」という言葉に書き換え、ダイヤル電話を知らない世代が違和感を覚えないように修正していたというものがある。このように星新一の作品は時代とともに修正が加えられていたということは有名なのだが、実際にどのように手が加えられたのかを確かめた者はほとんどいない。

そこで、今回は星新一作品の中でも有数の人気を誇る、商業第二作『殉教』を題材にとり、初出版と修正後の版との比較を行い、星新一本人による修正点を明らかにした。

 

方法

今回、底本として、初出版として「宝石 昭和三十三年二月号」に掲載されたもの(以下「初出版」とする)を、修正後の版として「ようこそ地球さん」(新潮文庫、改版八十一刷)に収録されたもの(以下「文庫版」とする)を使用した。

初出版と文庫版の本文をそれぞれ打ち込み、それらを比較しながら削除された部分・追加修正された部分・新しく追加された部分それぞれにラインを引き、変更点を明らかにした。

 

結果

比較に用いた本文を次に示した。

それぞれのラインの意味は、赤が削除箇所、青が新規加筆箇所、緑が加筆修正箇所、黄が原文のまま場所だけ移動された箇所である。双方で変更が加わっていない点はラインを引いていない。

まず初出版の本文が以下の8枚である。(著作権に配慮して、本文の文章は確認出来ないような解像度になっている)

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図1~8 『殉教』初出版本文

次に、文庫版の本文が以下の10枚である。(こちらも本文の文章は確認出来ないような解像度になっている)

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図9~19 『殉教』文庫版本文

また、初出版では8314字だった文量が、文庫版では11081字に増加しており、割合にして20%以上増加していた。

 

考察

全般的に変更箇所が存在するということが上記の比較から示されたが、その中でも特に大きな変更点として挙げられるのは、初出版における終盤の場面がほとんど全て削除されている点と、文庫版において冒頭が新規加筆によるものになっている点、そして最終盤の場面がほとんど新規加筆によるものになっている点である。これら冒頭と最終盤の文章がほとんど全て交換されている状況から、もはや両者は別の作品になっていると言っても過言ではない。

この大きな変更を加えられた箇所の中には、のちに確立されることになる、この文章の最初に示した星新一作品の特徴に反するものがある。

それは「時代的・場所的な要素が排されていないこと」だ。その最も大きな違反が、初出版最終盤の会話文に表れている。

「ところで、機械の奴はどうしたんでしようね」
「朝鮮に運ばれたということですから、今頃は印度かな、それともモスコーかな? まあ、どうでもいいじやありませんか。世界一周は時間の問題ですよ」

「朝鮮」「印度」「モスコー」と、どれも現在では一般的ではない表記である。また特定の地名を作中に登場させるという、将来的に陳腐化するかもしれない要素を作品に用いている。これはのちの作品には見られない特徴であり、文庫版では修正されている。

そのほかにも、冒頭部において、「某私立高校の講堂」とされていたものが「小さなホール」に変更されたり、「機械は、更に運ばれ、京阪神を過ぎたらしかつた。」とされていたものが「機械はさらに運ばれ、国土を横ぎっていった。」に変更されたりと、特定の場所を示すような記述はすべて修正されている。

これらの要素が修正されているということは、星新一がこれらの「時代的・場所的な要素」を意図的に排除しているということを示している。したがって、この文章の最初に挙げた「時代的な要素・場所的な要素が排除されていること」は、結果論的な特徴ではなく、意図的に星新一が創り上げた文学的姿勢であると言える。

 

また、文章自体にも大きな修正点がいくつか存在する。

まず、「っ」「ょ」などの音便が全て「つ」「よ」などの大きいひらがなで表記されている点である。これは現在では一般的ではない表記であり、文庫版では修正されている。しかし、これに関しては、掲載誌の「宝石」の全文が同様の表記方法となっているため、星新一の意図によるものであるとは断言できない。

次に、「一寸」「又」「作つて置いた」など、現在ならばひらがなにするであろう単語を漢字で表記している点である。発表当時の同時代の作品と比較すれば一般的な表記であっても、その時その時に馴染むように星新一はのちのち修正を重ねていたのではないかと推察される。

そして、「大衆」「連中」などの突き放したような表現が「人びと」という中立的な表現に変更されている点である。星新一作品の面白さは「人類を俯瞰したような目線」にあるが、その目線はあくまで見守るような目線であって(もしくは見守るような目線であろうと努めている目線とも言えるかもしれない)、人類を突き放しているような冷徹な目線ではない。このような単語ひとつの選択を見ても、星新一の作風は最初期には確立されていなかったのではないかと考えられる。

 

ほかに、小さな修正点としては、漢字のひらきと句点を打つ位置の変更、単位系の変更、登場人物の言い回しの変更がある。

漢字のひらき・句点の位置については、先に引用した、「機械は、更に運ばれ、京阪神を過ぎたらしかった。」とされていたものが「機械はさらに運ばれ、国土を横ぎっていった。」に変更されたという修正部分がいい例になっている。基本的に、星新一作品では、副詞は漢字をひらき、複合動詞は後ろをひらくという原則になっていると考えられる。これはSFにおける海外作品の翻訳における表記ルールに近い。海外作品は読みやすくなるようにこのようなルールを設けているが、星新一も読みやすさを重視してこのような表記を実行したのではないかと考えられる。また、句点については修正によって非常に読みやすく修正されていた。これに関しては端的に示すのが難しいが、小説を書きなれていくうちに自身の文章のリズムをつかんだ、ということではないだろうか。

単位系の変更では距離の単位「一里」が「三キロ」に変更されるなどされていた。現代では距離を何里だと表す若い人はほぼいない。したがって、この変更は「時代的な要素を排除する」という原則のもと変更されたのではないかと考えられる。

登場人物の言い回しは、それぞれ誰が話しているのかが明確になるように役割語を使い分けるといった形で変更されている。これに関しては明確な根拠がないので断言出来ないが、読みやすいように修正したということではないだろうか。また、登場人物のセリフに関しては、ほかにもセリフ前後の描写が追加される(初出版ではセリフが地の文なしに連続している箇所が多く見られ、セリフだけの脚本のような印象を受ける)という修正が行われていることを認めた。この修正によって、誰のセリフなのかが明確になり、読みやすさと小説らしさが向上している。

 

今後の展望

今回は星新一の商業第二作『殉教』を題材に、星新一作品の初出版と修正後の版での修正点を明らかにした。これによって星新一が作品において何を重視していたのかということの一例を示せたが、まだ一作だけの比較検討に留まり、一般化するには至っていない。

特に、商業デビュー作『セキストラ』は初出版と修正後の版とでは全くの別物だという(確か本人の)文章を目にしたので、同作についても入手次第同様の比較検討を行いたい。

最後に、「宝石 昭和三十三年二月号」掲載時に冒頭につけられていたコメントを次に引用する。(恐らく江戸川乱歩のコメント*1

昨年十一月に「セキストラ」を提げて登場した日本SF作家の第二作。裏返しのペシミズムを扱つたこの奇妙な着想を見よ! これは科学小説というよりは諷刺小説の味が強いけれども、科学上の空想的発明を手段としての諷刺なのだから、やはりSFのジャンルに加えてさしつかえないであろう。(R)

確かに『殉教』初出版だけを見ると、SFというよりも、マスコミとそれに流される「大衆」への風刺という風合いが強い。この風刺色の強い作品が、修正後は名実ともにSF作品へと変貌している。

また、この作品はガジェット重視のSFではなく、そのガジェットによる人類と社会の変容についての「センス・オブ・ワンダー」のSFだと私は考えているのだが、それらしい言及は乱歩(?)のコメントには見受けられない。「センス・オブ・ワンダー」としてのSFが日本ではいつ受容されたのか、さらなる研究が必要である。

 

結論

星新一の最初期の作品である『殉教』の初出版と文庫版を比較し、修正点を明らかにした。

星新一の作風は最初期ではまだ確立されておらず、『殉教』における作風に反する箇所はのちに大幅な修正を加えられた。

・修正箇所が修正を受けた理由を考察することで、星新一が作品において重視した事柄の一例を示した。

・しかし、この研究はまだ『殉教』一作における比較検討に留まっており、一般化のためにはほかの作品でも同様の研究が必要である

 

 

個人的な作品論Ⅰ

私は星新一作品では『処刑』に次いで『殉教』が好きなのだが、それにはいくつかの理由がある。それは「三重の対比構造」「究極の普遍性」「物語による価値転換」だ。

 

まず、「三重の対比構造」について。

作中に出現する対比構造として、最も大きいものが「生と死」という対比構造だ。作中では、この大きな対比構造を失った社会の辿るさまを克明に、しかし淡々とした口調で描き、「生と死という明確な対比構造をなくした社会には例外なくこのようなことが起こる」ことが示された。「ある状況を仮定した場合、人類そして社会はどのような反応を見せるか」というテーマはSFの根幹ともいえるテーマ*2であり、そのように物事を捉えることが「SF的なものの見方」だ。これらの「SFという考え方」の精髄を体現した『殉教』は、(一般的にはもはやSF作家だとは思われなくなりつつある)星新一の「SF」にほかならない。

また、この『殉教』を貫く「生と死」という対比構造を強調するために導入された第二の対比構造が、「動と静」だ。

「ある日の夕方。小さなホールの座敷を七割ぐらい埋めた、ものずきな人びとは、落ちついていられず、となりどうし、おたがいに声をかけあっていた。」という生と動を象徴する描写を冒頭にもつこの物語は、「機械はさらに運ばれ、国土を横ぎっていった。各地に、人のいない街がふえていった。」という死と静を象徴する一文で連綿と続いた中盤までの場面を終える。

物語が中盤を終えて終盤に至ると、「静まりかえったある街のなかで、ブルドーザーが動いていた。」という最初の文章で、物語が新たな場面に移る。この一文こそが、『殉教』において「生と死」「動と静」という対比を強調する最も印象的な文だ。死を静、生を動(音)と結びつけ、星新一は読者の視覚と聴覚を統御して「生と死」という明確な対比を示す。直前の文章で「人のいない街がふえていった。」という言葉で人の死に絶えた静かな街の情景を示した上で、その次の文で新たな対比を示し、「生」「死」という言葉を使わずして、星新一は読者に明確な対比を示すことが出来るのだ。

さらに第三の対比として、『信じられるものと信じられないもの』の対比が導入される。

物語の終盤において、なにかを信じられるものはすべて死に絶えており、生きているものはすべて自分さえも信じられないものだけだった。なにかを信じ、なにかのために死ねる、すなわち「殉教」することが出来る人間はすべていなくなってしまった。生と死の明確な境界を失った世界は一度混沌に陥るものの、なにかを信じることの出来ないものたちだけから成る新たな秩序に立ち返ってくる。「生と死」という対比がなくなったように思われても、最後にはやはり同じ対比が立ち現れてくるのだ。星新一は、これまで繰り返し描いてきた「生と死」という対立構造を一旦壊したように見せかけながら、最終盤でその対立構造を再度鮮明にし、「生と死」を徹底的に描き出したのだ。

 

次に「究極の普遍性」について。

先の「三重の対比構造」の節において、星新一は『殉教』において「生と死という明確な対比構造をなくした社会には例外なくこのようなことが起こる」ということを示したと書いた。この「あらゆる社会で同様のことが起こる」という普遍性を保証しているのは、舞台となった社会を特定するような文言が作中に全く表れないということにほかならない。

もしこの普遍性がなく、時間的にも場所的にも局地的な物語であったなら、この物語は60年後の今日まで伝わることがなかっただろう。(今さらだが、この作品の発表年は昭和33年、西暦で1958年にあたる)

考察の項で示した初出版と文庫版での変更点を改めて確認すると、もっとも大きな変更点は「時代的・場所的な要素の削除」だった。星新一は、『殉教』から徹底的に偏在的な要素をなくすことで、(日本語にアクセス出来る)あらゆる時代、あらゆる場所の人が違和感なく読むことが出来るようにしているのだ。

 

最後に、「物語による価値転換」について。

先に挙げた「三重の対比構造」「究極の普遍性」によって、『殉教』はいつどこで、だれの身に起こっても不思議ではない物語となり、その上で三重の対比構造の存在によって「生と死」というテーマが繰り返し強調される。その結果、読者は『殉教』を通して大きな価値転換を迫られる。これこそがSFにとって重要な要素である「センス・オブ・ワンダー」だ。

センス・オブ・ワンダー」で重要なのは、読んだ時の衝撃をいつどこでだれが読んでも同じように感じられることだ。普遍の真理でありながら誰もが気付かないことを、当然のことだと理解させる。星新一は「生と死の境界がなくなった」という初期条件を与えることで、思いもよらない(けれども論理的には自明な)結果を、普遍的な物語を通して導き出した。これによって、『殉教』を読み終えたあらゆる読者は、これまでとは違う見方で世界を眺めはじめる。今自分がなんとなく当然だと思っていることは、本当に当然なことなのか。そうやって物事を疑い、相対化していく視線が「SF的なものの見方」だ。

さらに、この「物語による価値転換」は『殉教』のみならず、『処刑』や『生活維持省』など星新一のほかの作品にも共通する要素だ。星新一は、ごく短い作品を通じて「SF的なものの見方」の精髄を示し、読者に圧倒的な「センス・オブ・ワンダー」を与え、さらにまたほかの作品でも繰り返し繰り返し読者の価値観を揺さぶり続けるのだ。

 

なお、これら先に挙げた「三重の対比構造」、「究極の普遍性」は初出版よりも文庫版の方が強調された(また新たに追加された)ものであることから、『殉教』の魅力は修正によって引き出されてきたものだと言える。

 

個人的な作品論Ⅱ

本項には星新一『処刑』『おーい でてこーい』、筒井康隆『お助け』、小松左京『くだんのはは』の内容に言及している部分がありますので、未読の方はご注意ください

『殉教』には「秩序」と「混沌(無秩序)」を交互に示しながら進むという様相が見られる。

「飽くことなくブームを探し求める人々」という秩序、「死者との通信機によって次々発生する自殺」という混沌、「すべての人びとが自殺した世界」という秩序、「すべての人びとが自殺しても自殺しなかった、信じることの出来ない人々」という混沌、そして「信じることの出来ない人々の作り上げる新たな世界」という秩序。

もっとも原始的な物語の構造は「失われたものを取り戻す」というものだ。これを言い換えると、「もともと秩序があり、失われた秩序を取り戻す」(「秩序―混沌―秩序」という物語)というものになる。『殉教』は「秩序―混沌―秩序―混沌―秩序」という構造をとっており、物語の構造を解体してみると、原始的な物語の構造を連続して二度繰り返しただけの非常に簡単な構造になっている。

星新一のSFが人々に抵抗なく受け入れられたのは、視線と思想については非常に先鋭的で他の追随を許さないようなものでありながらも、それを語る物語自体は非常に平易なものであるというところに理由があるのかもしれない。

例えば、『処刑』は「地球での安心出来る生活」という秩序、「火星での死と隣り合わせの生活」という混沌、「地球の生活と火星の生活は同じものだ」という秩序から成る「秩序―混沌―秩序」という構造であり、『おーい でてこーい』は「穴を見つける」という混沌、「穴にすべてを捨てたことで得た安心安全な社会」という秩序、「穴に捨てたすべてのものが降ってくる未来の示唆」という混沌から成る「混沌―秩序―混沌」という構造になっている。

一方で、同じSF作家でも筒井康隆小松左京のショート・ショートは構造が異なる。筒井康隆の『お助け』は「訓練による身体能力の拡張」という小さな混沌、「永遠に車に轢かれつづける苦痛」という大きな混沌から成る「混沌―混沌」という構造であり、小松左京の『くだんのはは』は「戦争で焼け出される」という混沌、「戦争の行く末を予言する女主人」という混沌、「実在したくだん」という混沌、「自身の娘がくだんだった」というより大きな混沌から成る「混沌―混沌―混沌―混沌」という構造になっている。

(まだ定性的・定量的に断言出来る程度にまでこの仮説を理論化したわけではないので、参考程度に留めていただきたい)

*1:「宝石」は乱歩責任編集の文芸雑誌であること、星新一江戸川乱歩に見出されて紹介された作家であることから、「R」という署名を乱歩だと考えた。

*2:例としては、アイザック・アシモフの短篇版『夜来たる』、ロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』、トム・ゴドウィン『冷たい方程式』、フレドリック・ブラウン『電獣ヴァヴェリ』、レイ・ブラッドベリ『歌おう、感電するほどの喜びを!』、アーシュラ・K・ル=グィン『オメラスから歩み去る人々』、小松左京日本沈没』などが挙げられる