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東西の短篇の名手の奇跡のコラボ━━「さあ、気ちがいになりなさい」(フレドリック・ブラウン/星新一、ハヤカワ文庫SF)

書籍情報

作者:フレドリック・ブラウン

訳者:星新一

出版社:早川書房(ハヤカワ文庫SF)

形態:短篇小説集

さあ、気ちがいになりなさい (ハヤカワ文庫SF)

さあ、気ちがいになりなさい (ハヤカワ文庫SF)

 

収録作品

みどりの星へ』

『ぶっそうなやつら』

『おそるべき坊や』

『電獣ヴァヴェリ』

『ノック』

『ユーディの原理』

シリウス・ゼロ』

『町を求む』

『帽子の手品』

『不死鳥への手紙』

『沈黙と叫び』

『さあ、気ちがいになりなさい』

感想

短篇の名手・ブラウンの作品を、ショートショートの神様・星新一が訳すという奇跡のコラボとなった一冊。ブラウンの純粋な翻訳と言うよりも、ブラウンの作品を底に敷いた星の短篇集という毛色が強く、ブラウンのファンからすると一言つくものになっているという。しかし、東西の名手による貴重な一冊なので、星による解釈も含めて十二分に楽しんでほしい一冊である。

元々はサンリオSF文庫の「フレドリック・ブラウン傑作選」として刊行されていて、後に半分ほどがこの本に収録された。残りの作品のほとんどは「闘技場」(福音館書店、ボクラノSFシリーズ)という本に収録されている。(2018年6月4日、山岸真さんより間違いを指摘していただいたので削除)

この本はもともと1962年に日本独自の短篇集として「異色作家短編集」の一冊として早川書房から発刊されたもので、2005年に「新版・異色作家短編集」の一冊として再刊された。最初に刊行されたのち長らく復刊されず、2016年に初めて文庫化されたことで、やっと手ごろな価格で楽しめるようになった。(2018年6月5日追記)

以下、収録順に感想を述べる。

みどりの星へ』は短篇集の頭を飾る作品であるのだが、「気ちがい」という作品が早速登場する危険な作品。確かに星の文体で物語がつづられていくが、登場人物の人名が飛び交い、色彩豊かな情景描写がたびたび出てくるので、少し混乱した気分になる。しかも主人公が狂人だと判明し、最初の作品だというのに濃厚な「気ちがい」成分を堪能出来る。赤と緑との視覚的な対比と、切れ味鋭いオチの出来が光る、トップバッターにふさわしい作品。

 

『ぶっそうなやつら』は星の好きそうな作品。互いの勘違いで物語が出来上がっていく様は、すこし筒井っぽいスラップスティックな雰囲気もある。この短篇集の中では、オチが予想しやすい部類に入るとは思うのだが、例えオチが分かってしまったとしても、話の巧妙さで読むひとを捉えて離さない。『みどりの星へ』と並び、ショート・ショートの醍醐味を十二分に堪能出来る作品。

 

『おそるべき坊や』の舞台はブラウンの故郷・オハイオ州シンシナティ。主人公の坊やが買ってもらった水鉄砲が、世界の平和を守ることになるのだが......。オチに登場する鞭や、坊やの趣味が切手収集だと言うのがなんとも時代を感じさせて良い。私は一度も海外に行ったことはないが、この作品を読むと、ブラウンの故郷シンシナティへの郷愁や、古き良きアメリカへの憧れが自然と心のうちに浮かび上がってくる。この小説では悪魔を浄化した水鉄砲の中身は聖水だったが、私は聖水は聖水でもあっちの「聖水」かと予想してしまった。「聖水」だと上述のノスタルジーが減じてしまう気もするが、意味としては十分通るのではないか。西洋の悪魔に効くのかは分からないが、日本の怖い話などではよくそういう話を聞く。(もっとも、「聖水」を使ったならば、まさに「おそるべき坊や」だろう。)

 

『電獣ヴァヴェリ』は私のお気に入りその1。筒井康隆など国内SF作家らに人気のある作品でもある。そしてフィリップ・K・ディックはこの作品を「これまでに発表されたSF小説の中で一番重要かもしれない」と評したという。(なんかディックのイメージと大分ズレている気がする。)

電気や電磁波などを食べる怪物「ヴァヴェリ」が地球に飛来し、地球上に電気の類が存在しなくなってしまった。電気を失った世界と、驚きながらもそれに順応していく人々の姿を描いた、抒情的な作品。電気なしにはとても生きていけない現代だからこそ、その魅力が際立つ傑作である。これまで読んできたSFだと、こういう天変地異が起こった世界を描くため、スラップスティック的な展開に拘泥することが多かったが、この作品は違う。人々はみな非常に冷静で、驚くほどすんなり状況に慣れ、そして音だけ聞こえる雷鳴を聞き、稲光を懐かしむ......。読むだけで、情景と心情とが自然に立ち現れてくる。ブラウンとブラッドベリの作品には科学的にはあり得なかったり、科学を否定したりするような作品が多い。しかしそれによって科学や人間社会の在り方が浮かび上がってくる。そんな時代的な雰囲気も含めて楽しめる一作である。なお、この作品にも「気ちがい」という言葉が登場する。

この作品を気に入った人には、キース・ロバーツの長篇『パヴァーヌ』(ちくま文庫)がおすすめ。『パヴァーヌ』は「歴史改変(オルタナ)+スチームパンク(ネオヴィクトリアン)」SFで、英国女王エリザベス1世が暗殺され、イギリスが英西戦争に敗北してスペインに占領された世界が舞台。したがってエリザベス1世による英国国教会の改革が行われず、全世界はローマ・カトリック教会に支配されていった。教会の強力な弾圧により科学技術は制限され、20世紀後半に至っても蒸気機関程度の技術しか存在しない。一般にオルタナは上位の社会階層に属する人物の目線から現実社会と作中社会との差を描くものが多いが、この作品は下層の一般人の目線を多く採用した連作形式であり、読み進めていくにつれて社会の様子が多角的に判明してくる構造になっている。階級社会に暮らす作中の人々の生活を通して、この世界の抱える秘密を楽しんでほしい。

 

『ノック』は冒頭の文章「地球上で最後に残った男が、ただひとり部屋のなかにすわっていた。すると、ドアにノックの音が......」が世界で一番短いショート・ショートである、ということで有名な作品。星新一が強い影響を受けたことでも有名で、全篇「ノックの音がした。」という一文から始まる不思議な短篇集「ノックの音が」はこの作品に由来する。先に引用した文章は最初と最後の2回登場するが、それぞれで受ける印象が全く違う。ブラウンの上手さを実感できる作品。

 

『ユーディの原理』は私の個人的なお気に入りその2。語り手の気が、書き出しの段階から狂っている。流石はこの短篇集に収められるだけはある。命令を口に出して頭を傾ければ何でも勝手に実行してくれる、便利な「ユーディの原理」。SFらしくはない物語のようだが、ラストに向かうにつれて次第にセンス・オブ・ワンダーが浮かび上がってくる。この作品を読むときは、ブラウンがひどく遅筆なことで有名*1だったことを考慮すると、より楽しむことが出来るだろう。

この作品が気に入った人は、レイ・ブラッドベリの短篇集「十月のゲーム」に収録されている『ドゥーダッド』という作品がおすすめ。思ったもの何にでも変化出来る「ドゥーダッド」という不思議なアイテムが登場するSFで、ブラッドベリには珍しいアイデアSFでもある。ショート・ショートとしてもオチが鮮やかで、ブラウンのように手短に面白い作品を求めているならば、上述の『パヴァーヌ』より手をつけやすいだろう。

 

シリウス・ゼロ』もまたまた「気ちがい」という言葉が登場する作品。題が掛詞になっていて、非常にいい題である。星間行商人の男が恒星シリウスに存在しないはずの第零惑星を発見する。着陸してみると、どうやら先人がいるらしく……といった内容で、異質な知性同士の接触を描いたファーストコンタクトものである。あの時代にこのテーマでショート・ショートを書き、しかも面白いというのは流石。 ファーストコンタクトものとして有名なものにH・G・ウェルズの『宇宙戦争』(1898)があるが、はっきり言って、現在の感覚からするとひどくお粗末な知性感によって書かれた作品である。ウェルズが1946年没で『シリウス・ゼロ』の発表が1944年であるから、発表当時ウェルズはまだ存命。同じ人間が生きている間にここまで知性に対する考えが発展するのかと、SFというジャンルのもつ力に改めて驚かされた。

 

『町を求む』はわずか8頁のショート・ショート。最後の頁で自分のことかと思った人もいるのではないか。ただ、ショート・ショートとしては話が直接的過ぎるのではないかと思ってしまった。あと小学生とか中学生向けの公民の読み物に収録されていそうだと感じた。主人公がギャングなので実際に収録されることはないと思うが。話のモデルになったのは、恐らく禁酒法時代(1920~1933)のアメリカ暗黒界を代表するシカゴの超大物ギャング、アル・カポネであろう。

 

仲良しのカップル二人組に起こった奇妙な出来事を描いた『帽子の手品』。含みのあるラストがいい。ブラウンの器用さが現れており、明確なオチなどなくても、書き方ひとつで鮮やかに締めくくる。 内容とは全く関係ないかもしれないが、なぜだか落語の『まんじゅうこわい』を思い出した。

 

『不死鳥への手紙』は私の個人的なお気に入りその3。星には珍しい、思弁的な一作。翻訳によって、実際の創作では現れてこないような一面が覗けるのも本作の面白いところ。この作品も「狂気」がテーマになっており、ブラウンの人間観を読み取ることも出来そうな気がする。

東西冷戦期のSFは、海外ではクラークの『幼年期の終り』やネヴィル・シュート『渚にて』、国内では星新一の『午後の恐竜』や小松左京『影が重なる時』『復活の日』のように、核戦争による人類滅亡が最悪のヴィジョンとして語られることが多い。しかしこの作品では、現在の人類の作った核兵器なんかまだまだお子様だ、ということが語られ、先に挙げた作品よりも楽観的で、超越的な感じさえする。無限の時を生きる不死鳥は、狂気を崇拝し、自らを焼き、何度でも復活する。ブラウンはこの作品で読者に強烈な狂気のイメージを植え付けて、最後の『さあ、気ちがいになりなさい』へと導く。この作品集に一貫する「狂気」を象徴する作品として、大きな役割をもつ作品だと思う。

また、人間の狂気を描いている点では筒井康隆の作品に似ている。しかし、スラップスティックな展開で狂気を描く筒井と、思弁的に読者に自身の狂気を自覚させるブラウンとでは方法が全く異なる。同じようなテーマでも、作家が違えば作品のもつ雰囲気が異なってくるということの好例である。 

 

『沈黙と叫び』は私の個人的なお気に入りその4。非常に後味の悪い一作。物語に殺人事件が絡んでいるということもあり、サスペンスやミステリが好きな人に読んでいただきたい作品である。今回取り上げた作品の中ではブラウンの短篇の「うまさ」が一番光る作品だと思う。疑心暗鬼の中で物語が進んでいくのは『ぶっそうなやつら』と同じだが、最後の1頁だけでこれまでの展開が大きくひっくり返る。締め方も鮮やかで、鮮烈で粘っこい後味の悪さが残る。

 

『さあ、気ちがいになりなさい』は今回の表題作にして、私の一番のお気に入り。これまででご存知の通り、星は意外と「気ちがい」という言葉をよく使う人で、エッセイや雑文などにはちょくちょく見ることが出来る。*2

収録作品の中で一番長く、またやたらかっこいい表紙のデザインもこの作品に由来している。この短篇集を通して語られてきた「狂気」がここにきて裏返る、まさに表題作にふさわしい一作。終盤に語られる集合的知性のアイデアと、「人間が地球の支配者ではない」というアイデアを1949年当時に思いついたのには驚いた。最近だと結構よく見るアイデアだが、まさかその源流が70年前にあるとは思っていなかった。この作品よりも前にアイデアを探るとすると、何になるのだろうか。考えられるのはフロイトユングだろうが、仮にそうだとしても最新に近い学説をチェックしていたブラウンの好奇心と探究心に驚く。 

先日SF研でこの作品の読書会を行った際、「ジョージ・バインは本当にナポレオンだったのか?」という意見が出た。だが、そんなことを考えるのは無駄なことではないだろうか。そう疑うことこそが、自分が正気だと盲信しているに過ぎないことだ。

あなたは自分が正気だと本当に信じているのだろうか。この物語を読んでもあなたは自分が正気だと思っていられるだろうか。さあ、気ちがいになりなさい。

 

 

この作品集は上述の通り狂気を重視した短篇集である。狂気を描いたSFには、筒井康隆『パプリカ』や夢野久作ドグラ・マグラ』などの名作がある。SFは自分を全く知らない場所へと連れて行ってくれるものだ。「世界が変わって見える感覚」であるセンス・オブ・ワンダーと狂気とは非常に相性がいい。

また、狂気に駆られたSF作家と言えば、ハーラン・エリスンが挙げられるだろう。エリスンは怒りと愛に満ち溢れた作家で、それはまさに『世界の中心で愛を叫んだけもの』に結実している。狂気は人を怒りに駆り立て、愛は人を狂わせる。実は怒りと狂気、そして愛と狂気とは互いに表裏一体のものなのかもしれない。(エリスンにしろ筒井にしろ、なぜ狂った作家は長生きなのか)話はずれるが、エリスンが『さあ、気ちがいになりなさい』を書いたらどのような作品になるのだろうか。非常に気になる。

 

次に表現規制について。これまでこの記事の中で「気ちがい」という言葉を連呼してきたが、この言葉は紙の本にしたらまず間違いなく修正されてしまうだろう。馬鹿らしいにも程がある。この作品集全体を読んだ人ならば、この作品集では「気ちがい」という言葉を使わなければならなかったと分かるはず。「気ちがい」という言葉を使わずして、ブラウンの意図した読者に与える衝撃を表現することは出来ない。

作家は、ある作品を通じて何かを伝えたいと思った時、その伝えたいことを最も効果的に伝える手法ならば何でも使わなければならない。それどころか、最も効果的な手法を使わないならば作家ではない。作家に使いたい言葉を使わせないというのは、狙撃手に得物を使わず狙撃しろと言っているようなものだ。

言葉は文脈に組み込まれることではじめて意味をもつ。「悪い言葉」なるものがあったとして、その言葉を使っていることだけで非難するのは無知をさらすだけだ。人は、文脈次第で「悪い言葉」に良い意味をもたせることも、「良い言葉」に悪い意味をもたせることも出来る。批判するならばちゃんと作者の意図を理解した上でにしてもらいたい。(熱心な筒井ファンとして、筒井の断筆の経緯を知っているからこそ少し饒舌になってしまった。)

それこそ、表現規制にやっきになることは「気ちがい」沙汰ではないだろうか。

 

最後に。正直に言うと、フレドリック・ブラウンは今や忘れられた作家である。これまでにブラウンの作品に触れたことがあるという人は少ないのではないだろうか。その原因として、ショート・ショートや短篇など、一作で一冊の本にならないような作品群に対する不当な軽視があると思う。出版社も商売なので仕方がない部分はあるが、それでも今現在人気のSF作家たちの書くものは長篇が多く、かつての日本SF御三家のように短篇をどんどん書いてSFの裾野を広げていったSF作家が少ないように思う。確かに短い作品では書けることが少ないが、その分練り上げられたアイデアと研ぎ澄まされた文章が楽しめる、長篇にはない魅力がある。時間に追われ、長い物語を読む時間がない現代だからこそ、ショート・ショートや短篇といった短い作品が活きるのではないだろうか。このブラウンの作品集を足掛かりに、短く完成された作品世界へと足を踏み出してほしい。

 

星新一訳のブラウンの作品は、この本に収録されたもの以外に、1982年に刊行された「フレドリック・ブラウン傑作選」(サンリオSF文庫、29篇収録。現在絶版)と、その抜粋にあたる「闘技場」(福音館書店、13+1篇収録。サンリオ版からの13篇に『みどりの星へ』が追加されている。)がある。星新一訳の作品のうち、サンリオ版に収録されている作品が現在では手に入りにくいが、訳にこだわらなければ創元SF文庫でほとんどの作品を読むことが出来る。(2018年6月5日追記)

闘技場 (ボクラノSFシリーズ)

闘技場 (ボクラノSFシリーズ)

 

 

※この本に収められた作品以外にも、星の翻訳作品としては、ジョン・ウィンダム『海竜めざめる』(福音館書店、現在絶版)やアイザック・アジモフアシモフの雑学コレクション』(新潮文庫)が有名な他、クリスチーネ・ネストリンガー『トマニ式の生き方』(エイプリル出版)という絵本があるらしい。

海竜めざめる (ボクラノSF)

海竜めざめる (ボクラノSFシリーズ)

 
アシモフの雑学コレクション (新潮文庫)

アシモフの雑学コレクション (新潮文庫)

 

*1:一日中タイプライターに向かって1枚描くのがやっとで、どれだけ書いても2、3枚が限度だった。

*2:星はショート・ショートを何度も書き直していたので、使っていたとしても後々削除してしまうことが多い。エッセイなどはあまり改稿しないため、書いた当時の文章が残っている。