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<文豪>筒井康隆の原点は全て初期作品にある━━「日本SF傑作選1 筒井康隆」(筒井康隆、ハヤカワ文庫JA)

書籍情報

作者:筒井康隆

編者:日下三蔵

出版社:早川書房ハヤカワ文庫JA

形態:短篇小説集

収録作品

『お紺昇天』

東海道戦争』

『マグロマル』

『カメロイド文部省』

『トラブル』

『火星のツァラトゥストラ

『最高級有機質肥料』

ベトナム観光公社』

アルファルファ作戦』

『近所迷惑』

『腸はどこへいった』

『人口九千九百億』

『わがよき狼』

『フル・ネルソン』

『たぬきの方程式』

『ビタミン』

『郵性省』

『おれに関する噂』

『デマ』

『佇むひと』

『バブリング創世記』

『蟹甲癬』

『こぶ天才』

『顔面崩壊』

『最悪の接触』

感想

日本SF傑作選の第一弾ということで、日本SF御三家が一人筒井康隆の初期SF傑作選である。日本SF傑作選の第一弾には当然日本SF御三家筆頭の星新一が来るべきではあるのだが、新潮社との独占契約のため、他社で新規の文庫版短篇集が出版できないのでこうなっているという。日本SF傑作選の星新一の巻の代わりとして、自選初期傑作選である新潮文庫の「ボッコちゃん」と「ようこそ地球さん」をおすすめする。

以下収録順に感想を述べる。

トップバッター『お紺昇天』は切ないAIの物語。大分古い作品ではあるが、人よりも人らしく感じるAIとの別れを通じて現代が見えてくる。ところどころに言葉遣いの古さが感じられるが、物語の中核はまっすぐ今現在の技術と社会の接点を描いている。人は人でないものにここまで感情移入することが出来るだろうか。

人とAIの関係について、長谷敏司の「アナログハック」という概念がある。厳密には少し意味がずれるが、所詮「もの」に過ぎない「人っぽい車」との別れに涙するというのは、アナログハックに該当すると思う。アナログハックと擬人化、感情移入はどう違うのだろうか。私が幼い頃は、すっかりボロボロになった箸や歯ブラシを捨てるのにも随分泣いていた覚えがあるのだが、今となっては箸よりもずっと高価で高度なデバイス類を処分するのにも顔色ひとつ変えなくなった。より人の知能に近いであろうデバイス類との別れには微動だにせず、ただの棒である箸との別れに涙したのは、精神発達の度合いの問題なのだろうか。それともデバイス類と箸との違いによるものなのだろうか。同じような経験をした人と話をしてみたい。

 

東海道戦争』は突如東京・大阪間で生じた「東海道戦争」を描いた作品で、64年の東京オリンピック後という設定。この作品がSFマガジンの65年5月号の掲載ということなので、同時代という設定なのだろう。明確な原因も目的も分からず始まった戦争に、これまた特に目的も動機もない大衆が次々と参加していき、訳も分からないまま犬死にしていく。血肉をまき散らしながら死んでいく様はどこかコミカルで、戦争という非日常がより強調された形になっている。筒井は戦時中国民学校に通っていたので、「戦争は誰かよその人が勝手にもたらすもので、自分は知らぬ間に巻き込まれていくものだ」という世代による戦争観があるのだろう。筒井の戦争ものには、この他人事のような非日常感が共通する。これは、同じ日本SF御三家の星新一小松左京の戦争観との明確な違いと言える。

この非日常的なドタバタが展開される中で、ひとつ強く印象に残っているセリフがある。長いので要約するが、「五輪で熱狂した大衆は、70年の万博までのつなぎとなるムーヴメントを求めていた。一部の人しか参加できない五輪とは違い、戦争なら誰でも熱狂の一線に立てる。だから大衆は戦争を望んだのだ。」というものだ。今現在、日本は2020年の東京オリンピックを控え、またその先の大阪万博の誘致が始まっている。半世紀を経て全く同じ状況に突入しようという日本を見渡すと、この当時描かれた日本人の、大衆の愚かさというものは全く変わっていないのではなかろうか。SNSなどのネット上の炎上騒動や、不倫騒動など、熱狂を求める動きは技術の進歩とともにさらに大きくなっていると感じている。筒井が放ったSFという矢は、同時代の世相を的確に射抜いただけでなく、半世紀先の未来にも到達していたのだ。

 

『マグロマル』は筒井の初期の傑作中の傑作。訳の分からない用語や翻訳不能な単語が数多く出てきて、読者にSF的に重要な言葉なのだろうと強く印象付けておきながら、最後の最後でその全てが無意味だったことを明かす。読者は、「SFだし出てきた言葉は多分全部意味があって出てきてるんだろうな、憶えておかなきゃな」と考えて覚えようと努力するだろうが、その努力は全くの無駄で、結局は筒井の掌の上で踊らされていただけなのだ。

またこの話の内容自体も、お互いに全く無理解な異星人たちの会議を通じて、各国の文化の違いなどを盾にして全く進展していない国際協力の現状を皮肉っている。この作品はSFマガジンの66年2月号に掲載されたということだから、半世紀も前に発表された作品なのだ。それにも関わらず、この作品が「宇宙人の星間会議」という題材を通して描いた地球の現状は今も全く変わらない。人間の本質的な愚かさを見事にSFに落とし込んだこと、自ら意味深な言葉を並べておいて最後に否定するナンセンス、そして時代がたっても価値を失わない、むしろ今だからこそ光るその普遍性、まさに傑作というに値する。

 

『カメロイド文部省』は馬鹿馬鹿しくも、どこか示唆的な作品。古今東西の文学作品と呼ばれる小説を読んでみると、『舞姫』や『人間失格』、『蒲団』をはじめ不道徳な作品の多いことに気付く。なぜこんな不道徳な作品がすぐれた文学として称賛され、また学校教育などにも導入されているのだろうか。昨今の表現規制の問題が取り沙汰される中、カメロイドの文部大臣が言ったように、虚構は現実の人間の行動や心情をそうも左右できるものなのだろうか。これに関しては、「フィクションの哲学」という哲学の分野があり、近年研究が盛んになっているらしいが、哲学的議論は置いておくとしても、この『カメロイド文部省』はドタバタの中に文学とは何か、という素朴な疑問を内包しているのだと思う。文学とは何だろうか。筋書きだろうか。表現技法だろうか。視点だろうか。私はまだ答えを出せていない。

 

『トラブル』はのちの傑作漫画『寄生獣』を思わせるパラサイト・スプラッタ。手足はいとも簡単に切り落とされ、内臓はぶちまけられ、血はとめどなく流れ続ける。このスプラッタ表現が表面的な嗜虐性によるものではなく、巧妙な語り口と見てきたかのような臨場感とで構成されていることによって、グロテスクもの・スプラッタものとして傑作となっている。SFとしてスプラッタな場面の理由付けがなされていることで、どこかコミカルでありつつ、過度にホラーでありすぎないという絶妙なバランスになっている。もしこれが大衆文学の文法で描かれるとしたら、もっと陰惨で非道徳的な作品になっていただろう。筒井は初期作品から、SFの文法を用いて遊んでいるのだ。

私がこの作品を初めて読んだのは筒井の著書としては2、3冊目ぐらいのことだっただろうか。元々親が筒井ファンで、小学生か中学生の頃に買ってもらった本に収録されていたのを読み、度肝を抜かれたのを覚えている。それまで児童文学とかまあ子供向けのような本ばかり読んでいたので、いわゆる「不健全な」表現にはあまり触れたことがなかったせいか、私は一瞬でこのワルい作家のとりこになった。その点でも中々思い入れのある作品。

 

現代のネット社会では、流行が瞬く間に作られ、また瞬く間に消え去っていく。『火星のツァラトゥストラ』はそんな現代社会の軽薄な流行を描いた作品である。舞台が火星で時代が未来ということ以外、いかにも現代でありそうな話題ばかりで、どうにもつまらない作品である。しかし、これが半世紀ほど前に書かれた作品であると知ってから読むと、普遍的な作品であることに驚くだろう。最近は巷に流れるニュースがみんなゴシップばかりで、衆愚的な空気に嫌気がさしている人もいるだろう。でも半世紀前からずっと日本はこんな調子だったのだと思うと、なにか楽しくなってくる。人間は変わらないし、そうであるからにはマスコミのあり方も変わらない。恐らく未来もずっとこんな調子なのだろう。

筒井のマスコミを題材にとったSFには『幸福ですか?』という傑作ショート・ショートがある。ごく短いので、ぜひ読んで、筒井の普遍的なものを見抜く力を存分に味わってほしい。

 

『最高級有機質肥料』はお下劣全開、個人的にもおすすめの作品。ただ、読んだ人は分かるだろうが、食事の前後に読ませるには向かないので、非常に人に薦めるのが難しい作品。この作品の成立にはふたつエピソードがある。まずひとつめだが、それは「筒井はこの作品を書くにあたって、自分で自分のうんこを切ってみて、断面を確かめようとしたところ、奥さんに見つかって『ついに発狂してしまった』と思われた」というものである。ちょっと誇張のようにも感じられるが、信じそうになってしまうのが筒井の怖いところであり、しかもそれが本当の話であるというのが恐ろしい。もうひとつは星新一の語るエピソードである。以下、「筒井康隆の世界」(新評社)から星新一筒井康隆に関するエッセイ『意外な素顔』の該当部分を引用する。

もうだいぶ前のことである。筒井康隆が東京へ出てくる前のことだから、彼が作家になりたてのころだが、小松左京そのほかと大阪で飲んだことがある。何ヵ所かで飲み、かなり酔ったあげく「なにか食おう」となり、地下のレストランでライスカレーだかを食べはじめた。

すると、とつぜん筒井さんが立ちあがり、予告もなしに、きたない話をしゃべりはじめた。なまじっかな程度のものではなく、極端にリアルで、えんえんとつづくのである。文章にするのをはばかるといいたいところだが、これは彼がのちに『最高級有機質肥料』という作品に書いたから、好奇心のある方はそれをお読みになるといい。食事しながら読めたら、えらいものだ。

ほかにお客がいたら、ただではすまなかっただろう。いまでもそうだが、彼はおしゃれで身だしなみがよく、まあハンサムでもある。それが直立不動で、大まじめで、そういう話をしはじめたのだ。まことに異様な光景であり、われわれは悪夢のなかにいるのではないか、ひょっとしたらここは地球以外の地ではないかと、ふと思ったものだった。そのころの彼の作品は、まじめなものだった。だから、いっそう悪夢じみた印象を受けたのである。思い出すと、いまでも妙な気分だ。(以下略)

 

ベトナム観光公社』は筒井康隆にとって最初の直木賞候補作となった作品。ベトナム戦争の「お約束」を全部ぶっこんだ作品で、当時の選考委員からは「フィクションがあってサイエンスがない」とか「風刺になり損ねて安っぽい笑いを呼んでしまう」だとか言われて好感は得られなかったようだ。星新一小松左京筒井康隆の日本SF御三家はみんな直木賞をとれず、以後日本SF界は芥川賞直木賞に対して連戦連敗が長らくつづくことになる。

さて内容だが、まず表題の「ベトナム観光公社」は「ベ観公(べかんこう)」と短縮出来て、この「べかんこう(べっかんこう)」は「あっかんべー」という意味の関西の方言なのだ。名は体を表すという通り、この作品は「戦争」という現象に対して「あっかんべー」をした作品だ。ベトナム戦争を題材にした作品の「お約束」を散りばめながら、今や当初の目的も分からなくなった観光用の戦争を馬鹿にしつつ、お祭り騒ぎの狂乱の中に「おれ」も飛び入り参加する。この作品はベトナム戦争さなかの67年に書かれた作品で、当時はベ平連ベトナムに平和を!市民連合)の活動も活発だった時期である。今だと大分アレな表現も多いが、アメリカで公民権運動が起こったのが60年代であるし、その時代の雰囲気を表しているということで重要な意味をもつ作品だと言える。

この作品で一番恐ろしいのは、この作品が直木賞をとっていた場合、同じ作品集(早川書房版「ベトナム観光公社」)に収められていた上記の『最高級有機質肥料』も「直木賞受賞」の文句とともに大々的に売られていたかもしれないということ。この世界線はこの世界線として、一度見物してみたい気もするが。

 

アルファルファ作戦』は300歳を超える超長寿化が実現した社会でのスラップスティック。冒頭で「三百年くらい前までは子供にやたらスマートな名前をつけたものだが、彼らが老人になった時にそれらの名前がいかに不似合いなものになるかということを、彼らの親は考えなかったのだろうか。」とあり、今も昔も変わらないものだなと面白かった。百歳越えてリンダは流石にねぇ。

それはそれとしても、この作品で描かれた惨状は今現実になりつつある。老人ばかりの町が増え、老人が幼児の声をうるさがり、余計に高齢化に拍車がかかる。流石の筒井もここまで現実が愚かだとは思わなかったのではないだろうか。この作品の老いぼれドタバタ自体が予想した中で最悪の状況だったとしたら。嫌な現実だ。

 

『近所迷惑』は時空の混乱したドタバタ。この作品はエンタメ色が強く、読んでいて非常に楽しい。途中でホワイトハウスを訪れる展開があるが、現在の米大統領であるドナルド・トランプが同じ状況に出くわしたらどんな反応をとるだろうか。考えてみるだけで面白い。自分で書いてもみたくなる。また、1967年にかけた電話が2015年につながってしまう展開もあったが、この作品の書かれた当時遠い未来として描かれた時代に、自分が今生きているのが不思議でならない。そして最後の最後に、収束したかと思った現象が、さらに悪化した状態で復活する。まさに短篇として区切りの良い終わり方で、現在のCG技術を用いて映像化してみたら非常に面白い画面になるのではないか。ぜひ見てみたい。

 

『腸はどこへいった』も下品でひどい話だ。クラインの壺という、面白そうな題材を使っておいてこのオチだから全くひどい。私は中学生の頃にこの作品に触れ、クラインの壺を初めて知った。以来クラインの壺と聞くたびに、家を押しつぶしてこんもりと積もったアレの様子が頭に浮かんでくる。深刻なミーム汚染である。文体からして確実に中学生ぐらいの読者を想定しているのだろう。その想定通り、私は中学生の頃にこれを読み、しっかりと山のようなアレのイメージが刷り込まれた。全くもってひどい話だ。

 

『人口九千九百億』は、今現在では現実になっていないものの、この先の将来では実現するかもしれない恐ろしさをもつ作品。ドタバタ的な展開も好きだが、私は謎の「エレベーターSF」や、架空のメクラなんとか系の生物群が好き。特にエレベーターSFなんてどのように(作中の)地球の現実と空想とをすり合わせているのかが気になる。スタニスワフ・レムの『完全な真空』のような架空のレビュー形式でもいいから、その内容が知りたい。

また同じ階層構造の都市構造を描いた作品だと、柞刈湯葉の『横浜駅SF』における松本や甲府を思い出す。階層構造で過密で人口過剰なので、九龍城塞のような景色が地球一面に広がっているのだろう、と非常に興奮する。オチもあっけなくて楽しかった。作中の地球、私は一週間ほど留まってじっくりと生活を体感したい。

 

『わがよき狼』は作品全体に懐かしい雰囲気の漂う作品。スペースオペラの主人公の物語の後の姿を語った作品で、読んだ人は、何かしら自分が子供のころに親しんだ物語の主人公の姿を重ねたのではないだろうか。物語の主人公、すなわちヒーローは、描かれた物語の最高潮が人生の最高潮であり、そのあとのピークを過ぎた人生はこのようなもの悲しい香りを漂わせるのだろう。互いに年を取った悪役やかつての仲間との再会、そして家庭をもったヒロインとの会話がとても読んでいて堪えられない。初めて読んだ頃はそう響かなかったが、読み返して一番心にしみた作品。

 

『フル・ネルソン』は全編会話文からなるドタバタで、意味不明なSFとなっている。しかしこの作品は70年の星雲賞国内短編部門を受賞している。となると、その年の国内短編で最高の作品ということになるが、読み直してみても全く脈絡がなくて意味が分からない。こうなってくると、この作品が星雲賞をとったということ自体が星雲賞級のSF的現象なのではないだろうか。何が何だかよくわからないが、まあよく分からないのである。多分、SFってこんなもんなのだろう。

こんなかんじで全編通してよく分からない作品なのだが、この作品の一番素晴らしいところは、「よく分からない」ということが非常に分かりやすいというところ。分かりにくく意味も取れない文章を書くの簡単なことだが、分かりやすいけど意味のない文章を書くのは非常に難しい。筒井康隆の驚異的な言語感覚が体感できる作品。訳が分からないが非常に読みやすいという点は、のちに芥川賞を獲ったSF作家円城塔にも通ずる部分があると思う。

 

『たぬきの方程式』はトム・ゴドウィンのSF史に残る名作『冷たい方程式』にヒントを得た「方程式もの」に分類される作品のひとつ。基本的には『冷たい方程式』と同じような筋書きではあるが、この2作を比べたとき、筒井によって追加された部分がまさに筒井らしい。最後の最後で絶望的な急展開を迎えるのがいやらしい。そこが筒井のお茶目さではあるのだが。

 

『ビタミン』は様々な文献を切り貼りしたという体で進行する作品。途中嘘なのか本当なのか分からない話が混ざりつつ、科学界での先行争いが面白おかしく描かれている、正にサイエンス・フィクションというべき小説。星新一のデビュー作『セキストラ』が同じような構造だったし、自分でもやってみたいと思ったのではないかなと思う。筒井の作品の中でも、『注釈の多い年譜』や『デマ』のような、小説とは言い難いような作品もあることだし、小説という枠組みに対する遊びを試みたのだろう。

 

『郵性省』は下品なエロチック短篇。多分中学生に読ませたら大喜びの作品だろう。これ絶対最後の言葉が言いたかっただけだろ、というアイデア勝ちの傑作。下品すぎてあまり人には薦めないが、個人的には筒井の作品の中でもだいぶ上位にランクインする作品。読んでいない人はぜひ読んでみて欲しい。

 

『おれに関する噂』も恐ろしく長い射程範囲を誇る作品。一億総監視社会ならぬ、七十億相互監視社会となった現代社会を手に取って見ているかのように描き切った脅威の作品で、ここまできれいに言い当てられると、人間はいくら文明を発展させても変わらない愚かな動物なのだと感じてしまう。ネットでの炎上騒動を見ていると、まさに筒井の描いた人間の汚さが露呈していて、傍から見ていて非常に面白い。しかし、自分にも人間の原初的な愚かさ、汚さがあり、また自分が踊らされる側にならないとも限らない。恐ろしい時代に生きているものだとひしひしと感じる。

 

『デマ』は小説の枠組みを少し飛び越えながらも、しっかりSFしている傑作。確かに、同時多発的に歪曲・拡散される情報を追うには、一筋にしか話が進行しない小説ではなく、同時に幾筋でも話が進行するフローチャートのようなメディアをとらざるを得ないだろう。この同時多発的なデマの拡散がまた秀逸で、言っちゃいけないことが瞬く間に広がっていく様、また別の情報と入り混じって奇妙に変質していく様がドタバタ的に描かれている。些末な事柄が戦争につながっていくという構図は、現代社会でより一層警戒しなければならないことだろう。情報を手軽に発信出来るようになった現代では、この「デマ」は瞬く間に広がり、無用な対立を生むことだろう。少し浅はかな解釈となってしまったが、情報の送受に関しては細心の注意を払わなければならないということだ。(浅はかなことも面白く伝えられるSFは、やはりすごい!)

 

この作品集の中で一際リリカルな輝きを放つのが『佇むひと』である。言論弾圧がすすんだ世界で、逆らったものは木として植えられてしまう。作中にたびたび登場する植えられた犬や猫が成れ果てる、からからの木を思わせる乾いた文体でつづられており、主人公である作家の疲れ切った無難な態度とともに、この作品の寂寥感を際立たせている。毒にも薬にもならぬ作品ばかり書き、知り合った作家とは二度と会うことはなく、主婦仲間の嫉妬から植えられてしまった妻をたびたび訪ねるも救い出すようなことはしない。自分の置かれた状況に悲観し、周りに流されるがままの主人公の姿に、どこか自分を重ねて感傷に浸る。全てが計算づくの演出で、筒井の腕が存分に発揮された名作───といいたいところだが、実はそう思わせるのも演出。

この主人公の行動は、この痛ましい現実をそのまま楽しもうという明確な意図の下に行われていたのだ。主人公は最後の場面で、喫茶店に入っていつもは砂糖入りで飲むコーヒーをブラックで飲んだ。この際に、「砂糖もクリームも入れないコーヒーの苦さが身にしみて、わたしはそれを自虐的に味わった。これからはずっとブラックで飲んでやるぞ、わたしはそう決心した。」とある。自虐的な味わいをこれからも続けようというのだ。このシーンの前に、主人公は木になりかけている妻を訪ねて張り裂けそうな気持ちになっていると示す。その上で、妻に向かって「君がニン【木編に人】の木になってしまったら、申請してうちの庭に植え替えてもらってやるよ」と言う。今の状況で会うのも辛いのに、将来的には自分のすぐそばに移そうというのである。これらの振る舞いから、主人公はこの辛い状況をより強調し、その苦しみを楽しもうとする意図的なマゾヒストだと言えるのではないか。そう考えると、この物語は決して寂寥感漂う作品なのではなく、喜びに満ちた作品なのだと言える。(最後の『枯れすすき』の替え歌も何かのヒントになっていそうだが、私は思いつかなかった。思いつき次第、追記しようと思う)乾いた無気力な作品に見せかけて、実はかなり黒く人間らしい物語構造になっている本作。この傑作集の中でも随一の傑作だと思う。

 

旧約聖書の創世記を題材にとった『バブリング創世記』はナンセンス小説として高い完成度を誇るが、言葉遊び的な側面の大きいリズム小説。始めの言葉からつなげて言葉が次々と生まれていく様は、本人が楽しみながら書いているのだろうなということを思わせる。ジャズのリズムのような部分もあり、音楽と文学の融合点ともいえる小説で、物語としてナンセンスなところから始まり、ただの連想ゲームから音楽や物語を創り出すのは天才的だ。各章のオチもそれぞれ綺麗で面白い。個人的には、『マグロマル』や『幻想の未来』に出てきたバリバリとその息子ベリベリも登場していたらもっと好きだった。出ていたような気もしたので探したが、見つからなかった。残念。

もし、この作品を完全なるナンセンス小説だと思って読み飛ばしてしまったという方がいれば、ぜひもう一度読み直して欲しい。意味のない言葉の奔流から筒井の楽しむ様や物語が生まれる様が手に取るように分かるだろう。

 

『蟹甲癬』は私が初めて読んだ筒井康隆の作品である。頬に蟹の甲羅が浮き出て、そして甲羅を取り外して裏に付いた蟹味噌を食べさせる、という非常にグロテスクな描写が作品に頻出するが、最後の語りは悲しく、リリカルな雰囲気をまとっていてなんとも言えない寂寥感がこみあげてくる。作中で気持ち悪い、グロテスクだと思うのも、読後に悲しい、リリカルな気分に浸れるのも、全て筒井の語りの巧妙さによるものだ。

私は、この作品の最後のひと段落が狂おしいほど好きなのだ。この文に出会ってしまったために、大学に来てSF研に入り、こうしてSFにどっぷり浸かってしまっているほどだ。一番最初に読んだ筒井の作品ということも相まって、筒井の作品の中でも五指に入るくらい思い入れのある作品である。

 

『こぶ天才』はヴィクトル・ユーゴーの名作『ノートルダムの傴僂男』(現在では『ノートルダム・ド・パリ』が一般的か)を題材にとった作品。これもまたひどい話である。ところどころというか、全編通して大分アレな作品だが、果たして自分たちはこの作品を批判できるほど大した人間なのだろうか。この作品が書かれた当時は、こんな認識が普通だったのかもしれない。今自分たちが当然だと思っていることも、未来では全く許されないことなのかもしれない。この話はさておき、この作品も、最後の『ノートルダムの傴僂男』オチが思いついてから創作されたのではないかと思う。とてつもなくくだらない話だが、「ランプティ・バンプティ」が実在する社会の歪みを語る物語部分をしっかり読ませるのは筒井の腕なのだろう。出オチをここまで作り上げられるのはすごい。

(それにしても、「傴僂」という漢字が「せむし」から変換出来ないということに私はすっかり閉口した。こうして過去の差別用語を見えないものにし、実在した差別の歴史を葬ろうというのは浅はかだと思う。)

 

筒井康隆の小説の上手さには、語りの上手さが大きな核を成している。『顔面崩壊』はその語りの上手さがいかんなく発揮された作品である。いちいち嫌な情景を巧みに説明し、最終的に読者を驚かせる構成となっていて、読み進めていくうちに苦虫を嚙み潰したような顔になっているだろう読者に「どうだい、嫌だろう? ほら、こんなのも嫌だろう?」と作品越しにいたずらを仕掛け、読者の嫌がる顔を見て笑っている筒井の顔が思い浮かぶ。筒井は中期以降にメタ構造をもつ作品を多く書くようになるが、初期作品であるこの作品にもメタ構造の片鱗が見える。基本的にいたずらっ子的な性格をもつ筒井がメタ構造に興味をもつのも、当然の成り行きだったのかもしれない。

 

他人は自分を映す鏡というが、『最悪の接触』はまさにそのことをSFを用いて面白おかしく描き出した作品。これぞ筒井のドタバタ! 面白いことこの上なしの傑作。なんといっても、最後の「人間がよくかけていた」というのが最高に面白い。ドタバタでありつつ、SFにおける定番ネタの「ファースト・コンタクト」を用いて人間を、また文明の交流を巧みに描いている。また、この『最悪の接触』の複製原稿を読むと、こんなふざけた話なのに万年筆を使って達者な字で書かれていて変な笑いがこぼれてしまう。『関節話法』にも共通する、勢いで人を笑わしてくる、外では読めない非常に危険な類のSFである。筒井のドタバタに共通する話ではあるが、狂気的な振る舞いを映像化したらすごく面白い画面になると思う。この作品だったら、最後のマグ・マグ人の暴れっぷりが一番映えるだろうか。途中までの一対一の交流の場面も含めて、フルバージョンで制作していただきたい。

 

 

一通り読むと、エロ・グロや時代性を全く排除した清潔な星新一の作品や、科学や思索に裏打ちされた正統派な小松左京の作品とは異なり、筒井康隆の作品はエロ・グロ・ナンセンスを多用し、またワンアイデア・ストーリーを言葉巧みに作り上げるといった感じの作風が強いことが分かる。筒井本人としては、先駆者ふたりと同じことをしていたのでは勝てないので、わざとふたりが描かなかった事柄をとことん追求していったのだというが、その邪道ともいえる表現方法が、筒井康隆のいたずらっ子(関西弁では「いちびり」という)な態度と、たぐいまれなる語りの巧妙さ、そして<作家>筒井康隆を演じる<役者>筒井康隆というメタ的な構図に見事に合っていたのだろう。

筒井康隆はその長いキャリアを通じて様々な作風を見せるが、その作風は初期作品にその片鱗を見出すことが出来る。

まず、言葉遊び好きな面。『ベトナム観光公社』や『蟹甲癬』など、タイトルから作り始めたであろうユーモラス(ただしブラック)な作品が確認できる。また、『バブリング創世記』のように小説として危ういほどに言葉遊びを楽しんだり、『郵性省』のようにギャグでオチたりと、様々な形で言葉遊びを楽しんでいる。この言葉遊びは、のちのち『残像に口紅を』や『現代語裏辞典』などへと繋がっていく。

次に、物語のメタ構造。これは個々の作品紹介でも触れたとおり、『マグロマル』や『顔面崩壊』に確認できるが、『最高級有機質肥料』にも『顔面崩壊』と同じようなメタ構造が確認できる。特に引用した星新一のエピソードは、まさにカレーを食ってる目の前でこの話をするという迷惑極まりないメタ構造だと言える。

そして最後に、スラップスティック(ドタバタ)な展開で人間の原初的愚かさを浮き彫りにする点。収録作だと『東海道戦争』や『ベトナム観光公社』『アルファルファ作戦』『近所迷惑』『おれに関する噂』『デマ』『最悪の接触』などがこれにあたる。これが筒井作品の根底を成す要素だと思う。人間をさめた目線で見ていた星や、人間の理性に期待していた小松とはまた異なり、極限状態における人間の愚かさを、愚かさをさらけ出す登場人物と同じ目線から抉り出したのが筒井だと言えるだろう。恐らくこの3人の人間に対する視座の違いは戦争を体験した年代の違いではないかと思う。この3人の比較に関して、それぞれの戦争観の違いなども含めて、別の機会にしっかりまとめて語ることにしたい。

 

筒井康隆の一番恐ろしいところは、これらの初期作品群で示された「愚かな人間像」が半世紀たっても今書かれた話で示されたものであるかのように鮮明なところだ。筒井は同時代の評論家たちに「時代の表面だけを描いていて、時代が経てばすぐに陳腐になる」だとか、「時代と寝る作家」と酷評された。それから半世紀経った今、まさに筒井は「時代と寝る作家」だったことが分かった。しかし、それは揶揄ではなく、時代の本質を知っているからこそ、同時代の表面的狂騒を描くことも、普遍的な人間像を描くことも出来たということを指す誉め言葉のようなものだ。下手な現代作家を読むより、半世紀前の筒井作品を読んだ方が、今の時代を上手く描けていると感じる。特に、この短篇集には収録されていないが、長篇『48億の妄想』やショート・ショート『にぎやかな未来』はこのインターネット社会を見事に予言しきっている。これらの筒井の見事な予言的作品を読み返すたびに、人間はいつまでも進歩しないものなのだなと思わされてしまう。

SFは従来の文学では担うことの出来ない役割をもつ文学であると、私は信じている。筒井のSF作品の文学的な再評価がさらに進むこと、そして今後のSFの文学的な発展を強く期待する。そのためにも、ぜひこの短篇集を足掛かりに、他の筒井作品に触れていただきたい。

48億の妄想 (文春文庫)

48億の妄想 (文春文庫)

 
にぎやかな未来 (角川文庫)