SF游歩道

語ろう、感電するほどのSFを!

反『君の名は。』としての『天気の子』試論

新海誠監督の新作『天気の子』を公開初日に鑑賞し、面白くなかったと感じたし非常に疑問点が多かったのでこの文章を書くことで整理したい。

 

前作『君の名は。』は、物語の構造とその論理性、そして“なぜその物語を物語らなければならないのか”という問題に対してその物語の中で回答を示した自己言及性において、自分の理想とする完璧な作品であった。

前作の成功が完全に論理的に導かれた必然的なものであり、かつこの物語の完成度を超えることは論理的に不可能であると理解していたので、今回の『天気の子』でどのような物語を展開するのか非常に気になっていた。

 

結論、本作は『君の名は。』の逆の物語構造を忠実に行った作品である。両作でなにが対立しているのかということを、整理しながらひとつひとつ見ていきたい。

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2019年上半期の読書整理記

平成が終わり、令和が始まった2019年。新しい時代の訪れとともに読んだ本を整理し、大学生活最後の半年に繋げていこうと思う。

 

上半期のベスト10

1.ディアスポラ」(グレッグ・イーガン山岸真、ハヤカワ文庫SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

 

実は読んでいなかったSFの最高傑作のひとつ。これをやられてしまったらなにもいうことはない。

ただ、物理を専攻するものとして、イーガンにすこし反論したい部分もあるのだが、それはまた別の機会に。“SF初心者殺し”として有名な本作だが、面倒なのは冒頭の部分だけ。むしろ全体を通してみれば「万物理論」の方が格段に厄介。 続きを読む

VRのSF性に関するメモ

VR技術をSFファンとして体験し、そのSF性について重要な発見をいくつかしているので、その感動を忘れないうちに記録しておくことにした。

あくまでメモ程度であるので整理はされていない。とにかくこの発見を記録しておくことが最優先事項であると判断した。

 

私が経験したVR体験は以下の通り。

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いちSFファンによるVRchat体験記

先日後輩宅でVRChatを体験してきた。ものすごく面白かった。

言葉を失っている。

かつてSFが描いた世界が、目の前にあった。VRChatを体験していたその間、私は、まぎれもなくSFだった。

あまりの衝撃に、ずっと整理できないでいる。この体験記を読む方は、この記事が整理されていないものであることに注意してほしい。

 

とりあえず、私の体験を写真とともに記録していこうと思う。(VRChat内にカメラ機能があるのだが、不慣れで下手糞なためモニタを直接写真に撮るという荒業で撮影した。そのためが質が非常に悪い点に関してはご容赦ください)

 

私がVRChatを体験したのは平日の15時ごろ。当然日本人はワールドにおらず、参加者はほとんど夜更かししているであろうアメリカのオタクだった。

一応VR体験はあったのでVR自体にはさほど驚かなかったが、それにしても、ゲームのような空間の中に私が立っているというのは面白いものだった。しかし、ここはVRChat、これまでのように空間内に自分しかいないというものではなかった。

周囲には、英語でコミュニケーションを交わすアメリカ人オタクが10人以上はいた。聞こえてくる声は全て男声だが、見える姿はほとんどがかわいい女の子のアバターである。

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写真1:"kawaii"文化交流

上の写真の彼女(彼?)とは、kawaiiムーヴで謎のコミュニケーションを行うことが出来た。手を振ると、きちんと手を振り返してくれた(かわいい)。しかも表情の変化も手動で行っていたので、なかなかの手練れであろうと推測される。

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写真2:インターナショナルバーチャル百合ムーヴ

私はプライバシー保護のためマイクを切っていたので結果として非言語コミュニケーションを行うことになったが、海を隔てているとはいえ、こんなところにいるものはみな同類である。写真1の彼女と出会ってすぐ、バーチャル頭なでなでを体験することになった。(写真2)

写真では非常に分かりづらいが、写真2の状況で、私本人の鼻先に彼の顔があった。VRChatはルームスケールVRなので、まさに実際に自分が他人のかわいいアバターと交流しているのと変わらない現実を体験することが出来る。

このような距離のことを「ガチ恋距離」といい、これこそがVRChatの醍醐味のひとつである。かわいいアバターと、実際に触れあえるのである。

おそらく当時その場所にいた日本人は私だけだったが、会う人はみな"kawaii"ムーヴ体得者であった。間違いなく、ネットの海を隔てて目の前にいるのはアメリカのオタク(しかも多分おっさん)である。しかし、目の前に見えるのは、写真1にあるように、笑顔で手を振り返してくれるかわいい女の子である(かわいい)。

これが現実に存在するのだ。SFの中でしかありえなかったような状況が、SFの想像力をはるかに凌駕した形で、いま私の目の前にあるのだった。この経験は、言葉では言えない。あなたが、あなた自身でもって体験しないと分からないであろう。(じゃあなんでお前はこんな文章を書いているんだ、ということになってしまうが)

 

名前も外見も知らない外人と"kawaii"を共有し、"kawaii"をともに作り上げる。「ちびのトースター」(おっさん)がバーチャル空間を平行移動で疾走し(写真撮影失敗)、バーチャル美少女(おっさん)とオタクトークし、美少女であるところの私(日本の大学生)に「きみかわいいね!」「しゃべれないの? お話ししようよ!」と英語で話しかけてくる。(外人にかわいいと言われたのは人生初でした)

美少女(写真1、2の彼女。おっさん)が虚空から刀を取り出し、「Show my SWORD!! Ninja Sword!!!! BOOOOM! BOOOOM!」と刀を見せびらかして振り回し、それを周りの美少女(おっさん)が羨ましそうに見ながらオタクトークをする。

小さい幼女(おっさん)が走ってきて、お花を渡してくれる。(写真3)

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写真3:花をくれた女の子(おっさん)

目の前に走ってきて、頭をなでてくれとせがむ幼女(おっさん)をなでる私。(写真4)

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写真4:頭をなでて国際交流

これらが、現実として、私の目の前にあった。たった15分ほどの出来事だった。これまで楽しんできたSFが、フィクションに過ぎないのだと体感した15分だった。

マトリックス」、「ブレードランナー」、「接続された女」、「ニューロマンサー」、「攻殻機動隊」、「レディ・プレイヤー1」、これらは素晴らしいフィクションだった。しかし、フィクションに過ぎなかった。それを私は体験したのだった。

 

 

 

Vtuber」、「バ美肉」、「VRChat」とSFらしい話題には最近事欠かないが、本当に、それらを実際に体験してそのSF性を論じた人間がいただろうか。SFに関わる人間できちんとこれらに言及している人間を、私はまだ見ていない。

それはそのはず、語るべき言葉を失うはずだからだ。私たちの体験していたSFは、虚構に過ぎなかったのだと、VRChatは目の前に、否定できない現実として突き付けてくるからだ。

 

フィクションの敗北を語る私に対して、「お前の文章表現が悪いのだろう」という反論を行うことは出来る。

しかし、私が感じているのは、構造としてのフィクションの敗北である。

私のVR体験は、現実である。それに対し、私のVR体験記は、フィクションである。そして従来のSFもまた、フィクションである。

現実は誰かの目を通した瞬間にフィクションになる。SFがフィクションである限り、現実としてのVR体験には勝てない。それを現実で私は実感してしまった。

 

おそらく、SFに深く携わる者ほど、この衝撃は大きいのだろうと思う。私の言いたいことは、とにかくVRChatを体験してほしいということである。言葉では語りつくせない。言葉で語れる感覚というものを、原理的に超越している。

とにかく誰かに体験してほしい。参入障壁は高いが、それだけに、いまは純粋な拡張された現実という現実を楽しむことが出来る。たのむから、はやく、VRChatに触れてほしい。

ブログ開設1周年の反省、今後の目標、その他よしなしごと

気がつけばこのブログを開設して1年が経っていた。

もともと継続的に更新するつもりだったとはいえ、1年の間にひとつひとつの記事が質・量ともに加速度的に重さを増していき、記事ひとつで1万字を超えることが珍しくなくなってしまった。

まあ、自分が楽しめていればまず目標達成なのでそれはよいとして、今後も継続していけるように、色々と書き残したいと思う。

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流行に先んずること40年以上、悲劇(?)の中華SF――「猫城記」(老舎、サンリオSF文庫)

書籍情報

作者:老舎

訳者:稲葉昭二

出版社:サンリオ

形態:長篇小説

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書影:HP「サンリオSF文庫の部屋」さまより引用

解説・感想

サンリオSF文庫紹介の第二弾。老舎は中国の作家ということで、この「猫城記」は今流行の中華SFということになる。流石はサンリオ、中国SFの流行を見事に見抜いていたのだ。惜しむらくはその流行が40年近く先であったことと、肝心の「猫城記」の内容がダメダメだったことだろうか。

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東北大SF・推理研 コミックマーケット95参加レポート

平成最後のコミケとなるコミックマーケット95の3日目(2018年12月31日)に、「東北大学SF研究会」として初めてサークル参加をし、東北大SF・推理研の機関誌「九龍」第2号を頒布した。会誌制作から頒布当日までの体験をここに記録しておくので、将来のSF・推理研会員各位は今後の活動の参考にしてほしい。

  • 機関誌制作
  • 事前準備
  • 頒布当日
  • 結果
  • 良かった点
  • 反省点
  • 修正案
  • 後日発覚したこと(2019年1月6日追記)
  • 購入報告等
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2018年下半期の読書整理記

また半年が過ぎ去り、2018年が終わる。平成最後の年に向けて、下半期に読んだ本を整理したいと思う。

 

下半期のベスト10

1.「文字渦」(円城塔、新潮社)

間違いなくこの作品が下半期のベスト。年間を通してもベスト、というかこれまで読んできた中でもベスト。

これまで「小説を書く」ということを徹底的に考え続けてきた円城塔が、今回はそれをさらに超えて“日本語”で“紙の本”の“小説を書く”ということを徹底的に突き詰めた結果がこの作品なのではないか。

前々から「全く新しいということは分かるが、新しすぎてどれだけすごいのか分からない」と言っていたのだが、この作品でついに分かった。空前絶後だ。文字通り。こんな異様な才能はもう二度と出てこない。

この作品集は「文字」に関する作品集だ。「文字」というものを徹底的に考え抜き、遊んだ結果がこの作品集だ。これまでの円城塔の読みづらさが「文字」を題材に撮ったということ自体に吸い取られたため、これまでの作品よりもずっと読みやすい。

私は、この作品を自信をもってすすめる。これこそが、現代日本文学最大の収穫であり、ひとつの到達点にあたる作品だ。”日本語”で”紙の本”の”小説”を書くという日本文学は、夏目漱石からはじまり、円城塔でひとつの極地を見るに至った。

この作品を、見逃すにはあまりに惜しい。

私が収録12作でもっともおすすめするのは、『新字』だ。状況説明的な前半さえ乗り切れれば、後半は息もつかせぬ「文字」への考察が待っている。(こう言うのはどうかと思うが)『新字』だけでも書店で立ち読みなりなんなりしてほしい。買わずにはいられなくなるはずだ。

文字渦

文字渦

 

shiyuu-sf.hatenablog.com

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円城塔試論Ⅰ「円城塔の自己言及性とSF性」

私は円城塔のファンであり、ここしばらく円城塔とSFと物理と文学のことしか考えていない程度にはファンである。そうして部室などで円城塔の面白さを他人に語りまくることを通じて、円城塔の作品を読むことにおける重要な要素をようやく整理することが出来たので文章にまとめておく。

円城塔は、一般にはSF作家と認知されながらもSFらしくないと言われる作家である(よく分からなくて難しいのがSFらしさ、と言われるとなんとも反論できなくなるが)。しかしながら、円城塔をきちんと理解していこうと読んでいくと、次第にSFらしさというものがはっきりと見えてくるようになる。このように円城塔を読んでいく上で最も重要なことは、「Self-Referencial」(自己言及的)な要素を理解するということである。

まず前提知識として、「円城塔」は「Self-Reference ENGINE」であり、小説によって小説を記述し、言語によって言語の不完全性を笑うものであるということを理解してほしい。ここでまず、なぜ自己言及がそんなに重要なのか不思議に思う方がいるかもしれないので、その解説を行う。

自己言及、特に円城塔もそうであるように理系の分野における自己言及と言うと、20世紀初頭にイギリスの哲学者・論理学者・数学者である Bertrand Russell によって指摘された「 Russell のパラドックス」というものが有名である。

「 Russell のパラドックス」とは、素朴集合論において自身を集合の要素として含まないような集合をおくと、矛盾が発生するというものである。これを論理式で表すと、以下のようなものになる。

\begin{align} R = \{ x | x \notin x \}, \\ R \in R &\Leftrightarrow R \in \{ x | x \notin x \} \\ &\Leftrightarrow R \notin R \\ R \notin R &\Leftrightarrow R \notin \{ x | x \notin x \} \\ &\Leftrightarrow R \in R \end{align}

上記の論理式で示したとおり、最初の仮定R = \{ x | x \notin x \}の下でR \in RとおいてもR \notin Rとおいても確かに矛盾が生じる。(現在集合論として採用されている公理集合論では、R = \{ x | x \notin x \}を集合と定義しないことによってこの矛盾を回避している)

このほかにも、自己言及のパラドックスとしてはクレタ島出身の哲学者 Epimenides による「すべてのクレタ人は嘘つきである」という Epimenides のパラドックスがよく知られている。さらに言えば、「この文は偽である」という文章もまた、自己言及のパラドックスの最も単純な例である。このように、自己言及が行われている場合、不可解で興味深い矛盾が生じることが多い。

これを小説で行っているのが円城塔なのだ。

小説とはなにかと小説で問う。言葉とはなにかと言葉で問う。自己言及によって自明だと思っていたことに揺さぶりをかけ、新たな地平へと読者を連れていく(連れていくとは限らないが)。

その実例が円城塔の小説の難解さから導かれる小説の本質的な不完全性*1だ。この事実を指摘するには今私が行っているように評論の形をとって自己言及を避けるべきだが、最初に示す際は小説によって読者に読み取らせた方が都合がいい。(「小説は完全ではない」と率直に主張する小説は矛盾を起こす)自己言及によって生じた矛盾を解決するために、解釈を変更する。この解釈の変更がSFで言うところの「センス・オブ・ワンダー」であり、数学で言うところの「再定義」であり、物理で言うところの「理論の修正、もしくは式の解釈の修正」なのだ。これこそが、円城塔SFの本質のひとつであり、晦渋極まる語り口と人を突き放す発想と底なしの情報量とに遮られて見えづらくなっている円城塔のSFらしさのもとである。

このような「現行理論の矛盾点を解決し、かつ旧来の理論を包含する新たな理論を構築する」という行為は、数学や物理学で日夜行われている行為(例:古典力学から相対論への拡張)であり、真に科学的な行為だと言える。その手法を用いた、もしくは読者にその行為を行わせるような虚構は、まさにサイエンス・フィクションだと言えるだろう。

数学や物理学は円城塔が専門としていた分野である。それらを用いて自分の好きな文学を描き出し、自分とはなにものかを外部に示す。それはまさしく自己言及的な行為であり、またSF的な行為である。円城塔は疑いの余地なく「Self-Reference ENGINE」であり、また円城塔の作品は紛れもなくSFである。

*1:これについては以下の記事の「総解説」の節を参照していただきたい。 shiyuu-sf.hatenablog.com

文字についての謎を文字で明かす、円城塔の最高傑作――「文字渦」(円城塔、新潮社)

書籍情報

作者:円城塔

出版社:新潮社

形態:単行本

文字渦

文字渦

 

収録作品

「文字渦」

「緑字」

「闘字」

「梅枝」

「新字」

「微字」

「種字」

「誤字」

「天書」

「金字」

「幻字」

「かな」

 

感想・各作品解説

《新潮》連載時に「種字」を読んでからずっと単行本化を待っていた。率直に、間違いなく今年の新刊本の一番はこの作品で決まりだ。そう断言出来る。(しかしながらこの文章を書き上げるのに4ヶ月もかかってしまった)

円城塔特有の「どこまで本当なのか分からない大法螺成分」は各短篇の題材自体に吸い取られているので、文字に関する論理的な考察に集中して読むことが出来る一冊になっている。その点では円城塔を初めて読むという人でもあまり抵抗なく読むことが出来るのではないか。川端康成文学賞に推されたというのも納得出来る大傑作だ。

前置きでだらだら書いていても仕方ないので、さっそく各短篇の話に移ろうと思う。今回は円城塔本人がツイッターで作品の内容の補足のようなことを発信していたので、適宜それを添付しながら書き上げた。

おそらく日本で一番詳しい解説になっているので、よくわからなかったという方でも安心して読んでいただけると思う。

以下、収録順に感想と解説を述べる。

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